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春の少し前

「春の少し前」というお題をもらった。気付けば1年近く、自分の内省方法の大部分を占めていた文章を書くという行為をしていなかった今の自分に、これほど見過ごせないお題はなかった。

このキーワードをもらってから、毎日、毎瞬間この言葉が浮かぶ。「春の少し前」は、それほど私にとって、とても重要なキーワードだ。一番苦手で、一番心が締め付けられる。

あまりにも美しくて、愛おしい対象に出会うと、どうしようもなく切ない気持ちになる。その対象は、人でも、草木でも、差し込む陽の光でも、なんでも。その美しさを享受すると同時に、これほどまでに眩いものが消えてしまうことを想像して、胸がぎゅっと締め付けられるのだ。別に永遠を望んでいるわけではない。ただその一瞬の煌めきに心が奪われる。終わりがあるからこそ、美しいなと思い、その儚さに心も身体も囚われる。

屈託なく弾けるような笑顔や、凛とした佇まい、どこか孤独を感じさせる背中、朝露のきらめき、都会のビルに照り返す夕焼け。心の琴線に触れるものはいつだって、一過性のものだ。対象が刹那的なものかどうかというよりも、普遍的なものも含め、すべての物事に、変わりゆくものを感じてしまう。それは、どんな事象にも必ず陰と陽どちらもが備わっているはずだと、脳内や身体全体でもう片方を補うように、無意識的に作用する。

この作用は、自分の思想の根幹を貫くものだと認識している。時期や環境、自分の心身の状態によって振り幅はあれど、ベースとしてはいつもずっと自分のなかにある。

それが一番顕著に表れるのが、春の少し前だ。厳しい寒さの冬を越え、つぼみが芽吹き、生き物が動き出す。閉じていたもの、眠っていたものが開いていく季節。やわらかで温かい日差しがキラキラと輝いて木々に反射するまばゆい光。目に映るものひとつひとつが、意味やメッセージ性を帯びているようで、つい見入ってしまう。

春は出会いと別れの季節。人々が一斉に節目を迎えることで、当たり前にあった毎日が、終わりを想定したもの、新しい生活を見越したものへと変容していく。街中ではどこを歩いても晴れ着に身を包んだ人々や、引っ越し業者のトラック、新生活を謳ったものが目につく。SNSには門出の報告や祝福の声がひしめきあう。新しい生活は希望に満ち溢れているようで、その裏には不安と恐れ、葛藤が同居するもの。街ゆく人々のリズムからは、新生活への期待と不安、そのアンビバレントさが手に取るように伝わってきて、つい私までそわそわしてしまう。


春を迎えるまでの寒暖差を三寒四温というけれど、一気にあたたかく明るい未来にはスイッチできなくて、その過程には薄暗い夜の冷え込みやヒリヒリする不安や緊張がつきまとう。これをどう乗り越えるかが毎年の課題だ。去年も、一昨年も、その前も、大きな変化と終わりが目の前にあって、期待と不安で押しつぶされそうな街ゆく人々の心は私自身の気持ちの反映でもあった。大好きでバイブルのような本や音楽、映画のほとんどが、この時期を乗り越えようとするときに出会い、そっと寄り添ってもらった作品のような気がする。それらに触れながら、自分のまとまらない気持ちや揺らぎを扱ってきた。

今年はまだ厳しい寒さが続くせいか、身体のだるさや体調の優れなさはあれど、呼吸が浅くなるような気持ちのざわつきは例年よりだいぶ少ない。

刹那的な煌めきや、物事の浮き沈み、終わりを意識することが、季節を問わず自分にとって当たり前の性質として包摂されてきたのかもしれないが、まばゆいほどの希望の光やその反動ともいえる不安や緊張、恐れといった大きな感情の揺れ動きが、自分事ではなくなってきたのかもしれない。

昨年までは自分自身が激動で荒波の只中にいたからこそ、強烈な感情に敏感であり、他人のそれにも反応していた。一方この1年は、自分の心地良い環境と、信頼できる人たちに囲まれ、自分のペースで暮らしを営んできた。ときに強烈な感情や揺らぎを渇望し、それがないと生きた心地がしないような屈折した反応もあったのだけれど、穏やかな暮らしをそのまま慈しめるようになると、自分の振り幅が落ち着いてくる。

毎日のささやかな暮らしのなかにも、道端の名もなき植物が芽を出したり、日の入りが少しずつ長くなっていることを観察したり、味わい深い小さな変化がたくさんある。それをひとつずつ噛みしめるだけで十分。そんなひっそりとした生活を送っていると、この時期特有のなんとも落ち着かない、感情の揺らぎが遠ざかっていっている気がした。

ずっと心を寄せていたファミリーの卒業写真、合格発表、進路の報告が続々届くなか、どれも温かい気持ちで受け取れている。連絡をもらえることが嬉しくて、これまでの日々に思いを馳せながら、一人ひとりの門出を祝福する気持ちでいっぱいになり、満たされる。それと同時に、一人ひとりの変化をどこか達観して受けとめられている自分に気付く。


それはそれで自分なりの新しい在り方なのかもしれないけれど、なんだか自分だけ安全地帯の壇上から見下ろしているみたいで居心地が悪い気もする。自分自身がぐらぐらと地に足が立ってない状態だったからこそ味わえていた感情やドラマが、時の流れとともに新鮮さは失われ、どれも既視感のあるものになっていくこともあるのだ。ずっと荒波に立ち向かい続けるのは疲れるけれど、自分自身に新鮮さがなくなるのは嫌だ。変容し続け、新しい感情に出会い続けられる自分でいたい。

自らの心身を健やかに保つことと、生々しく泥々とした感情やドラマをダイレクトに味わいきることがトレードされないように。終わりを意識することは、分かりやすく今この瞬間の彩度が上がることに繋がる。しかし、大きな変化や終わりを駆動力にするのではなく、この先しばらくは穏やかな日々が続いていくのだろうと思いながらも、目の前の物事をどれだけ全身全霊で味わい、没頭できるか。試されているように感じた2024年の3月末。まだまだ寒くて、暖房をつけている。春はもう少し先のようだ。



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