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私たちの国民性 第3のリベロ Vol.8

日本人の国民性を端的に表現するなら、どんな言葉が最適だろうか。例えば国技においては、ただ単に勝つことを良しとしない。だから、歴代最多の優勝回数を45回に更新し、2位大鵬の32回を引き離す大記録を樹立している大横綱に対しても、批判的な見方が絶えない。2年ぶりに東京以外で開催された先月の名古屋場所、白鵬が史上6回目の千秋楽全勝決戦を制した照ノ富士との一番。立ち会いで放った右のかち上げは三沢光晴顔負けのエルボーのようで、直前の左手の動作も含め、確かに粗暴な印象を受けた。軍配が上がって拳を振り上げた様は、礼節が重んじられる角界の慣習からしてみれば異様だった。68代朝青龍以降、71代鶴竜に至るまで4代続いたモンゴル出身の横綱に総じて付きまとったのは、「品格」への疑問符だ。大相撲という国技、日本に特有な文化を継承していくうえでは、尊重されるべき視点だと思う。他方、「SUMO」という競技としてより国際的に開かれていくためには、ルールの範囲で手段を選ばない姿勢も認めねばならないだろう。この議論では決まって、批判するなら当該行為を禁じればよいという意見が聞かれるが、品格とはおそらく、ルールによって規定される概念ではなく、禁じられていないことでも、あえてやらない態度や価値観なのだ。白鵬はその存在をもって、観る者に答えの出せない問いを投げかけているのかもしれない。

高校球児の晴れ舞台の場合、つつがなく日程を消化すればよいわけではない。本州の広い範囲を巨大な帯のような雨雲が覆った今年、2年ぶりに開催された夏の全国高校野球選手権は甚大な影響を受けている。先週は、3日間連続で順延される事態となった。この反動で、予定していた休養日は削減され、出場校は応援用バスのキャンセル料などで経費が逼迫しているという。安全や効率の観点でいえば、開催地をドーム球場に変更したほうがよいのは明白だろう。もともと、真夏の昼日中、炎天下の甲子園での試合開催は物議を醸してきた。個人的には、甲子園での開催は各校の初戦および決勝戦のみとし、近隣の複数の球場で分散開催するなど、恒久的な変更も検討に値すると思う。しかしながら、「甲子園でなければ意味がない」の一念が、いまだ説得力を持ち、あらゆる改革の障壁ともなっているように見受けられる。甲子園とは、わが国の風物詩でもあり、高校生のあらゆる分野の全国大会の代名詞でもある。地元・西宮に縁のある身としては、その空間がもたらす特有の雰囲気も肌で知っているが、こちらは前記した品格とは異なり、人の健康をも脅かしかねない。ときに雨風に晒される空の下、過酷な状況に耐えて奮戦する姿が尊いという感覚は、高校野球に限らず、ややもすると安全も効率も「二の次」とされる私たちの日常にも通ずる点で、実に根が深い問題のように思える。

半年ぶりに買って読む「文藝春秋」。今回の芥川賞は、作品の舞台と同じドイツ在住の石澤麻依と、日本語を母語としない2人目の受賞者となった李琴峰に授与された。手始めに読んだ受賞インタビュー、「言葉は生かしも殺しもするし、文学は希望にも絶望にもなる。絶望の淵にいる人にとって、文学は救いの一点の光であってほしい」との李の言葉が胸に刺さり、2つのうち先に読みたい作品が決まった。何かとカテゴライズされることへの抵抗を語る李は、「"あなたは○○だから、こうであるべき"というのが、あらゆる息苦しさの根源ですね」と述べていた。横綱や高校球児、国民的な注目を集めてきた存在には、国民性が色濃く反映されている。それらを変革しようとする声は、継承しようとする分厚い壁の前にいつも塞がれてきた感がある。李の言う○○に横綱や高校球児を当てはめたとき、私たちの国民性に潜む陰が浮かび上がってこないだろうか。

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