言動で区切って時間を積んでいく
なんとか年内滑り込みで美容院に行けた。
カット・ブリーチ・カラーの3時間フルコースだ。
今日は日が照っていて暖かいなあと思いながら散歩がてら歩いて美容院に向かったが、帰りはとうに日が暮れて、寒さで早足で帰ってきた。
髪の毛もそうだし、大掃除にしても、やっぱり「年内のうちに」と思う。
別に2024年12月31日から2025年1月1日に日付が変わったからといって髪の毛が急に10cm伸びるわけではないし、お風呂が急にカビだらけになるわけではない。
けど、そういう節目や区切りはどうしても意識してしまうものだ。
わたしにとっては11月18日~の旅行もそうで、世間一般的には何の節目でもないわけだけれども、わたしにとっては旅行という区切りの前にできるだけ仕事をきれいに片づけたく、日に16時間働くなどの無茶をした。
このあいだも冬至について書いたけれども、最近の自分は「区切り」を意識している。それはたぶん2024年の終わりが近づいていることももちろんある。
だけどここ1、2ヵ月、わたしは自分の人生の終わりについても思いを巡らせている。そのためにこの先のキャリアや生き方について考える時間をとろうと思いながら本日12/29までずるずる先延ばしにしてきたから、逆に人生の終わりがずーっと頭の片隅にいる、ともいえる。
人生の終わりといっても、虫眼鏡をかざせば1年1年の積み重ねで、つまり1日1日の積み重ねであり、1時間1時間、1分1分の積み重ねだ。
時間を泥のようにダラダラ使っていては積み重ねられない。
けれど砂をバケツで固めてブロックにすれば積み重ねられる。
ダラダラしないためには「バケツ」という区切りが必要なのだと思う。
区切りはなにもキッチンタイマーで時間を計ることばかりではない。
言葉や行動によっても時間をブロック化できるのではないかと仮説を立てている。
たとえば、ひとりで食事をとるときも「いただきます」といえば食事の始まりを多少なりとも意識するだろうし、「ごちそうさまでした」といえば食事の終わりを意識するだろう。
YouTubeをみながら食事をとるにしても、「YouTubeを観るついでに食事」ではなくて「食事をとるついでにYouTubeを観る」と主従が逆転するような気がする。
これは「とっくに食べ終わっているのにダラダラYouTubeを観続ける現象」の防止につながらないだろうかと期待している。
行動もそう。
大学生の頃から「月末にその1ヵ月を振り返る」作業を続けているけれども、忙しさを理由にスキップした翌月はだらっとしがちだ。
たとえば先月がそう。11月の振り返りをできなかったから、11月31日、11月32日と、長い11月を過ごしているような感覚になる。
まるで徹夜明けの「48時間あるだるい1日」だ。
散歩でも、掃除でも、服を着替えるでも歯磨きでも、決まった音楽を流すでも、鏡に映る自分に向かって「おはよう」っていうとかでも、何でもよいと思う。
とにかくうまいこと「区切り」を設ければ、怠け者の自分も多少はシャキッとできるのではないかと。
これは年末という区切りを待たず、今日から取り組んでみたい。
手始めに晩酌で「いただきます」をいってみようかしら。
…そんなことをだらっと考える年末の晩である。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたがシャキッとするためにしていることは、なんですか?