浮き輪のような人生の諦め
軽い燃え尽きの時期には、いったん立ち止まって過去を振り返ってみよう。
師匠がこうおっしゃるので、今までの人生を振り返ってみた。
人は早ければ1、2歳で保育園という「箱」デビューを果たし、その後も小中学校・高校・大学、会社組織と、数十年にわたってさまざまな箱に属することとなる。
わたしの人生年表をみると、どの箱にも「なじめなかった」と書かれていることに気づく。
そもそも給食を食べるのも体操着に着替えるのも遅いため、幼稚園ではなにをするにも「みんな」に合わせられず先生の手を煩わせた。
運動神経が鈍いゆえドッジボールやおにごっこをちっともおもしろいと思えず、小学校でも浮いた。
「晴れているのだから休み時間は外で遊びなさい」という先生にもひとつもなじめなかった。体育の授業で運動するんだから、休み時間ぐらい好きにさせてくれよ。
おかげさまで一輪車、鉄棒、フラフープ、雲梯などひとりで成り立つ遊具なら人並み程度にこなせるようになったが、大人になって役立ったと思えたものはひとつもない。
そうしてひとつも自分からなじもうとしないので、クラスでも煙たがられた。自分もわがまますぎだったとは思うが、ちょっとした嫌がらせも受けた。
どうせ煙たがられるなら、せめてコンピュータ室で遊ばせてくれたほうがよほど将来有望な生徒に育ったと思うぜ。
中学高校では暗黙のヒエラルキーにつばを吐いているタイプだったし、大学になればバイトに打ち込んで同級生との交流をほとんどしなかった。
だからか、会社では先輩に目をつけられてガン詰めされた。
仕事のできが悪かったのもあるけれど、それを差し引いてもわたしだけ理不尽に怒られることが多かった。
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どこに行ってもなじめない。
それでも思春期で大人の階段をのぼるあたりでは意識してなじもうともしてみたが、思う形で努力が実を結んだとはいえない。
クラスでは、なぜそれがおもしろいのか理解できないものばかり流行る。
うわさ話もどうでもいい。
別に輪に入れてもらえなくてもけっこうだが、必要以上に煙たがるのはご遠慮願いたかった。ほかっといてくれ。
そして残念ながら、会社組織も学校と似たようなもんだった。
わたしの人生において、わたしという存在はいつもどの箱でもぷかぷかと浮いている。
どんなに沈ませようとしても浮かんでくる浮き輪のように。
そうこの期に及んでまざまざと思い知り、もうこの先なじめなくていいし、なじまなくていいやと諦めるに至った。
学生時代と違って、自分が属する箱は自分で選べる。
会社員時代と違って、つき合う人も自分で選べる。
嫌なら立つ鳥跡を濁さずEXITすればいい。
「合わない」がデフォルトだから、むしろ「合う」ほうがよほどラッキーだ。
どうせ浮き輪のような存在だ。
しいていうなら浮かんでいることで誰かの役に立てればいいと思う。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたがなじみやすい環境はどんなところですか?