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受け取らない勇気

2013年に発売された『嫌われる勇気』は日本国内だけでも276万冊(※)売れているという。
以降「嫌われる勇気を持ちなさい」と、あちこちで見聞きするようになった。

※参考:岸見一郎 『嫌われる勇気』がずっと売れ続けている理由 | 日経BOOKプラス


さて、あなたは嫌われる勇気のある人間だろうか。

わたしは自分にとって「どうでもいい人間」に嫌われてもまったくかまわないが、自分にとってだいじな存在であればあるほど嫌われる勇気は小さくしぼんでいく。

ただし、自分にとってどんなにだいじな存在だと認識していても、わたしの性格や生きざまを愛なく否定する人に関してはこちらからさようならする程度の勇気は持っている。と思う。

大人になっても、あれがやりたい、これもやりたいと興味と好奇心がとっちらかっていたわたしは当時の仲間から「何かを得るには、何かを我慢しなきゃ」とアドバイスを受けた。
なんてつまらない人たちだろう。
わたしはそのグループを去った。
仲間の「やりたい」を応援できるのが仲間なんじゃないのかな。


ところで、家族というのは、わたしは血の繋がった「仲間」だと捉えている。
「わたし以外」の人間は家族であっても他人であるから。

家族のつながりはとても不思議なものだ。
血縁以外の共通点がなにもない人たちが共同生活をするのだから。

学校の友だちは「同じ地域に住んでいて同じ学校に通っている同じ年の子」という共通点がある。
部活の友だちは「部活」が共通点だし、同僚は会社(部署)が共通点だ。

もちろん親と同じ趣味を持ったり、兄弟で同じ部活に所属したり、共通点はそのうち生まれるかもしれない。
しかし基本的には「血の繋がり」という目に見えない共通点しか持っていない。

そんな人たちが(付かず)離れず日々の生活をともにしていくのだから、そりゃあ難しいことがあって当然ではないだろうか。


わたしの場合、父親や母親にはわたしを産み育ててくれてありがとうと今は心から感謝しているし、幸せなことにわたしと両親の関係は良好である。
今後「嫌われる」ことも、よほどでなければないと思う。

それは、あるときから思いきりぶつかってきたからだ。
妹より先に生まれただけの「姉」であるわたしは、父がすこし難しい状況に陥ったとき、あるいは妹が難しい年頃であったとき、本人たちに直接言えない思いを持った母親の、行き場のない気持ちの向かう先となった。

言っておくが妹とは2つしか歳が離れていないのだ。
妹が難しい年頃ということは、わたしも難しい年頃である。

今となってはもっと母親に寄り添い、母の言葉に耳を傾けてあげればよかったと思うが、未熟なわたしにはできなかった。(今もまあ未熟だけど)

「その言葉は受け取りません」と、はっきりと突っぱねた。
一度や二度ではなく、何度も何度も。

それが本当に効いたかどうかわからないが、時間が経って父や妹の状況が落ち着いたので母親もわたしに「気持ちの押しつけ」をしなくなった。
そしてわたしも精神的にすこし成長し、突っぱねるのではなく「かわす」ことを覚えた。


繰り返すが、家族とはわたしにとって「特別な他人」であり、「だいぶ濃いめの仲間」である。
家族、とくに親から受ける影響は大きい。
しかしわたしだって「親の子」であるだけでなく自我を持った「個」だ。

できれば険悪にはなりたくないが、だいじな存在であるからこそ「全部は受け取らない」「違うことは違うと主張する」勇気を持っていたい。
愛を持って。

「嫌われる勇気」を持つにはなかなか勇気が要るけれど、「受け取らない勇気」ならまだ、始めやすいのではないだろうか。


今度ゆっくり、母親とサシで飲みに行っていろいろ話を聞いてみたい。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたにとって家族とはどんな存在ですか。

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