【エンド・オブ・ライフ】向き合えなかった自分と向き合う。
ノンフィクション小説を手に取ることが稀な私がこの本に出会ったきっかけはこの「noteの読書の秋」企画。
まずそのことに感謝したい。
ちょうど南杏子さんの『命の停車場』という在宅医療に関する小説を読んでいたことも内容がリンクしていてより読みやすかったと思う。
私は元医療者なので医療関係の話はつい特別な思いで読んでしまい、感情移入してみたり避けてみたりしてしまうのだが、主に看る側として抱いたそんな思いも含めて感想を書く。
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看護師として約6年総合病院に勤務した。(決して長いとは言えないが。)
がん患者と関わったのはそのうちの約半分ほどで、実際に自分の勤務内で看取った経験は私にはない。なので看取りという意味では素人に近い。
それでも最初に治療に来た時にはすたすた歩いて元気だった患者さんが、その回を重ねるごとにどんどん食べられなくなっていく、動けなくなっていく姿を何度も見た。
在宅医療との関わりと言えば訪問入浴の看護師をやってみたこともある。
そんな経験を経てこの本を読むと嫌が応にも自身の仕事や患者さんとの関わりを突き付けられる。
そのうち病室に行くのが苦しくなってね。頻繁に診に行っていたのが、だんだん足が遠のくんですよ。
診療所の院長が病院での研修医時代を語る言葉に、仕事を離れて忘れていた気持ちを思い出した。
やっぱり「あー良くはならないんだな。」という人の部屋の空気は独特で、長くその部屋にいて関わるのは精神力がいることで、それこそ本書でも書かれているが死に触れる経験が少ないまま育った私にはどうしたらいいかわからない、何を言ったらいいかわからない。怖い。
ただいるだけでも良かったんだと今なら思うけれど、気持ちはいつも逃げていたなと反省させられ、でもそれがその当時の自分の等身大の姿。
死は穏やかであっても、その過程への怖さは今も抜けない。
人手の少なさと何かあったときのことを考えて、患者さんに自由を約束できなかった病院内での実際も、確か。
ルーティンをこなしてるんだ。
という筆者の父の言葉も耳が痛かった。
自身のいた病棟は熱心な同僚が多かったので、本書で書かれている対応はさすがにひどいと思ったが、そんなつもりはなくてもどうしても1日にやることは溢れていて仕事が業務になった場面がなかったかと聞かれると嘘になるなと思った。
在宅での訪問入浴も、回る件数が多いのでゆっくり関われるわけではなくその点に違いはなかったけれど、家に入ってその人の生活を見るというのは確かに印象に残ることだった。
そんな自分や家族がもしも将来在宅医療を選択することにして、看れるかと聞かれるとやっぱり自信がない。看てもらうのも辛いし不安。
患者さんだから、他人だからできることってあると思う。
家族ともなると、それまでの長い関わりが感情に直結する。
入院中に家族がほとんど来ない患者さんに対して、もっと来てあげたらいいのにという人もいたが、1人の先輩が言った一言が今でも忘れられない。
「でもこれがその人の生きてきた結果だから。」。
まさに、
たいていは生きてきたように死ぬんですよ。
冷たく感じるかもしれないけど、紛れもない事実だと思う。
昔ひどいことを言われたとかされたとか、そんなことを忘れていつまで続くのかわからないケアを続けることって難しい。
在宅に向けて病棟で伝えた医療物品の扱いも実際に家族がどこまでできていたか確認するすべもないし、実際おざなりになると思うし、
考えれば考えるほど難しさしかない。
それでも、どこでどういう最期を迎えるかわからないのが現実。
頼り頼られる関係を作っていく希望を捨てられない自分もいて、あれこれ考えるけれど、結局はそれが唯一自分に今できること、とこの本から読後感を得た。
私にとってこの本は、向き合えなかった自分と向きあえた、人間として自分の成長に繋がる1冊であり、これからも大事にしたい。