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【短編小説】となりのマリエちゃん【ホラー/サスペンス】

 マリエちゃんには、秘密がある。

「このきったねえ人形、捨ててなかったのかよ、直子!」
 ドアを開けた瞬間、奥から、怒声がした。隣室への挨拶を済ませてきたわたしは、雑然とした奥の部屋の、段ボールを開いていた彼に、睨まれた。マリエちゃんが、彼の指先に服をつままれ、ぶら下げられている。
「あー……うん」
 マリエちゃんは、おもちゃの人形だ。未就学の女児用で、身体は、赤ん坊より一回り小さい程度。拳大の、丸い洋顔。茶髪でオカッパ。くりっとこげ茶色の双眸。関節が可動する。黄ばんだブラウスと、橙色のギンガムチェックのスカートを履いている。マリエちゃんの肌はひどく汚れている。何度も捨てられるうち、黒く変色してきていた。衣服は洗濯できるのだが、本体のほうは肌色の薄い布を張った軽量の材質で、わたしはマリエちゃんの洗い方が分からない。水を含ませたタオルで払拭しても効果がみられないので、気にしないようにするうち、慣れた。市販の消臭剤を振り、とりあえず、防臭はしている。
「なんでこれ処分しないんだよ。引っ越すからって、色んなもん捨ててたじゃん」
「だって、……思い出の物なんだもん」
 あっそ、と、彼は呆れ顔。けして嘘ではない。けれどわたしは、本当のことは明かさない。真実を告げれば、気味悪がられることくらい、分かっている。

 マリエちゃんには、秘密がある。それは彼女が「帰ってくる」人形、ということだ。わたしがその現象に最初に触れたのは、八歳のとき。当時、両親が多忙で、わたしは祖母の家に預けられていた。わたしが抱いていた小汚いマリエちゃんを見、祖母はわたしからマリエちゃんを取り上げ、ゴミとして捨ててしまった。半泣きになって、集積所へ行こうとしたわたしに、祖母は、
「泣いたり、勝手に外出したら、もう二度と家に入れてやらない」
 と、きつく言い含めた。わたしは疎まれていた。馴染みのない土地で、友達もおらず、人形しか遊び相手がいなかったのに、冷たい仕打ちだ。けれど、閉め出されたらと考えると、恐ろしかった。頼るあてなどない。心の内でマリエちゃんと、マリエちゃんをくれた母へ謝罪しながら、わたしはマリエちゃんを諦めた。ねだって、せっかく手に入れたばかりだったのに。残念でならず、悔しくて、悲しかった。
 しかしその夜。明日の準備をするべくランドセルの蓋を開いたわたしは、なかに、マリエちゃんを見つけた。すごく驚いた。「え?」と声をあげたのを記憶している。だって、マリエちゃんは確かに、わたしの眼前で、捨てられたのだ。祖母がわたしの胸中を酌んで、思い直してくれたとは、とても思えない。
 けれどマリエちゃんはそこにいる。つまり、帰ってきた、のだった。客観的に考えれば、ぞっとする話だ。だが、親も友達もいない土地で、疎まれ、孤立していた幼心には、彼女がわたしのもとに戻ってくれた事実が、沁みるように嬉しかったのだった。胸がほっとし、二度と捨てられないよう、わたしはマリエちゃんを、大事に隠し持つことにした。とはいえ、所詮子供のすることだ。わたしはその後もたびたびマリエちゃんを発見され、不気味がられ、都度、捨てられた。そしてそのたび、マリエちゃんは帰ってくる。ある時など、生ゴミと一緒にされたらしく、ひどい腐臭がこびりついていた。けれどマリエちゃんの表情は相変わらず。くりっとした瞳で、唇を結んで、微笑んでいる。おかえりと笑いかけても、変わらない。それが、なんだか愛しかった。

 わたしの新しい住居は、マンションの一室だ。実家よりもずっと小さい。一人暮らし。そこでわたしは、マリエちゃんの定位置を検討した。これまでは、部屋にあったタンスの上に座らせていたものの、今回、タンス自体持ってこられなかった。どこに置こう。どこに仕舞おう。収納も少ない。だからといって、他人の目に映るマリエちゃんは、黒ずんだ古い人形、だ。堂々と飾るのは憚られる。ちょうど、靴箱のなかの上段が抽斗になっていたので、わたしはマリエちゃんをそこに仕舞うことにした。

「なにこれ。人形?」
 声に、わたしは顔を上げた。先刻、帰宅した際に施錠を失念していたのはわたしの痛恨のミスだ。慌てて、玄関と部屋を隔てている戸を開く。短い廊下のすぐ、狭い玄関に、アイコママがしゃがみ込んでいた。こちらに気づき、満面の笑みで細い手を振る。赤いマニキュア。
「お邪魔してまーす!」
 わたしは笑い返そうとして、失敗した。わたしはいわゆる隣人トラブルというやつに、巻き込まれている。アイコママは、隣室の住人だ。わたしと同い年。シングルマザー。アイコちゃんという娘と二人暮らし。引越の挨拶に訪いた際は、来春には小学生になる娘がいるというこのアイコママを、素直に好ましく思った。友達にはいないタイプだ。スナックで働いており、派手な装いだが、ぱっと目を引く華やかな美人。明るくて気さく。わたしは三十路間近となっても独り身なのに比べ、なんて立派なんだろう、と。
 だが以来、毎日のように、訪ねてこられる。少し馴れ馴れしくないだろうか。こちらも仕事で疲労しているのに、お構いなしだ。わたしの帰宅時間と、彼女の出勤時間が被るのも原因で、こうして、出勤前に立ち寄られる。些細なことを気の済むまで喋る。さらにもうひとつ、問題がある。それは、物がなくなることだ。買い置きしておいたはずの日用品などが、ふと消える。それは大抵、アイコママを送り出したあとに気づく。最初は気のせいだと思ったが、次第に頻繁になっていった。犯人は、彼女に違いない。それ以外、誰も来ていないのだから。ただ、例えば、トイレットペーパーが一ロール。百円均一で購入した小さな観葉植物。ミニホウキ。ボールペン、洗濯ばさみ、彼からもらった安物の一輪挿し――わざわざ問い質して事を荒立てるほどの高価な物はない。それに、同じ商品があちらの部屋にあったとしても、不思議ではないような、とりたてて特徴のないものばかり。気のせいだとしらを切られたらそれで終わり。無論、盗まれるのは腹が立つ。だが盗癖を指摘したりして、関与するのは面倒だ。余計な摩擦は避けたい。できれば緩やかに距離を置いていきたい。
「言っちゃ悪いけど、汚いよね?」
 はっとした。アイコママは、マリエちゃんの背中を手の平で抱くようにして、まじまじと見、美しく引かれた眉を寄せていた。なぜ、彼女の手のなかにあるのだろう……。マリエちゃんは、わたしの領域にあるときは、一ミリだって勝手に動かない。関節は可動するけれど、歩いているところなんて目撃した経験はない。だから抽斗から這い出たりはしない。家捜しへの嫌悪感を露わにしないよう、わたしは努めた。
「なんとなく、捨てられなくて」
「あ、分かる! あたしも、アイコのぬいぐるみとか捨てちゃいたいけど、なんか怖いもん。帰ってきたらどうしよー! なーんてね」
 屈託なく笑うアイコママ。その鋭さに、わたしはぎこちなく微笑む。わたしが複雑な思いに沈むのを、アイコママは快活に笑い飛ばした。
「でもまあ、捨ててみたら案外、さくっと忘れちゃうもんだって。あっ、ちょうどゴミあるから、一緒に出してあげる!」
 といい、玄関のドアを開け、隣室のドアの前に用意してあるゴミ袋を示す。そうして、わたしの返事を待たず、アイコママは袋を引き摺ってきた。ぱんぱんで、ずっしりと重そうだ。縛ってあった口を解いて、マリエちゃんはなんとか押し込まれた。無理矢理口を閉じる。あっという間の出来事だった。ゴミ袋は、わたしの部屋の前に、置きっぱなし。
「ちょっとここ置かさせて! 朝帰ってきてから捨てるからさ!」
 そこ、共用廊下なんだけど、という言葉は飲み込んで、
「うん、ありがとうね」
 彼女が廊下に出ている今がチャンス。わたしは、ごく自然な流れで挨拶をし、ドアを閉じた。施錠をして部屋に戻ると、なんだか一気に疲れがでて、脱力した。

 翌朝。出勤するべくドアを開いたそこで、マリエちゃんを発見した。昨日、ゴミ袋のあった位置に座っている。ゴミはなくなっていた。マリエちゃん、早速帰ってきたらしい。アイコママは、きちんとゴミを出したようだ。汁気があるものを入れていたのか、廊下には汚水の跡。少しいった階段のほうへ、水滴が続いている。マリエちゃんは、そんな悪臭の発生源の上に、鎮座していた。わたしは無造作に拾い上げ、ギンガムチェックのスカートが、まるで漏らしたかのように濡れているのを見咎める。
「次は室内にしてね」
 マリエちゃんの表情は変化ない。ちょっとくらい、ばつの悪そうな顔でもすればいいのに。そのとき、共用廊下の向こうから、スウェット姿のアイコママが軽快に歩いてきた。ゴミ出しついでに、近所のコンビニへ出掛けていたのだろう。袋を提げている。
「あれ? その人形? いまゴミに出したのに?」
 アイコママは怪訝そうに人形を凝視し、わたしと人形を交互に見やった。不思議に思われたくなくて、わたしはマリエちゃんをさっと後ろ手にし、取り繕う。
「やっぱり、その、思い入れがあって……」
 アイコママは口をへの字に曲げた。
「変な人」

 その日の晩。帰宅したわたしは、今朝、ゴミ袋から舞い戻って、時間がないからと靴箱の上へ座らせておいたマリエちゃんが、いなくなっていると気づいた。まさか、宛がった定位置に、自分から戻ったのだろうか。靴箱の上段の抽斗を引けど、そこはもぬけの殻。記憶違いだろうかと、わたしは周辺を捜索する。けれど、わたしは確かに靴箱へ置いた。他の場所にあるはずがない。捜しても、どうしても見つからなかった。さらにずいぶん捜してから、やっと諦める。どこへ行ったんだろう。なぜこれまで「帰る」以外の行動を取らなかったマリエちゃんが、どこかへ「行って」しまったのか。どれほど考えても、理由は、分からなかった。

 事件は、翌日起こった。拳でドアを叩くけたたましい音が響き、わたしは五時半という謎の時間に起こされた。あと一時間は寝られるのに。何か緊急だろうかと、慌てて飛び起き、ドアを開錠した瞬間。架かっているチェーンを引き千切るんじゃないかというほどの勢いで開いたドアの隙間から掴みかかろうとしてきたのは、アイコママだった。わたしは反射的に身を引く。目を白黒させるわたしに、
「いったいどういうつもりよ!」
「え、な、なに? なにかあったの?」
 この人形! と、アイコママは、隙間からマリエちゃんを突き出した。わたしはただ唖然とする。受け取ろうとしたけれど、マリエちゃんは、玄関に履き捨ててあるピンヒールの上に、落下してしまった。いくら無機物だからって、顔のあるものにその扱いは、あんまりではないだろうか。
「なにかあったの、じゃないわよ! ドアポストにコレ、突っ込んだでしょうが!」
 アイコママは怒鳴り声をあげ、三十センチほど開いていたドアを、強烈な力で閉じた。ドアの向こうで、遠ざかる足音と、隣室のドアの喧しい開閉音。わたしは呆然と立ち尽くす。まるで嵐のよう。口を挟む暇もなかった。足元には、ピンヒールに衝突したマリエちゃん。試しに目の前のドアポストに詰めてみようとしたけれど、細長い口の部分は、広告を挟んだ新聞がぴったり通る程度の幅しかない。寸法的に、マリエちゃんはポストには入れない。溜息を吐きながら、わたしはマリエちゃんの、ぼさぼさに広がった髪を撫でつけ、また抽斗に仕舞い込んだ。

 次にマリエちゃんを見たのは、翌夕。仕事帰りの共用廊下。わたしの部屋の前にいた。マリエちゃん、いつの間に、出迎えるようになったんだろう。拾い上げると、香水臭かった。嗅いだことがある香り。視線を感じて、ふと隣室をみれば、アイコママがドアを細く開き、こちらの様子を窺っている。暗がりのなかの目と目が合った瞬間、バンッと強い音を立て、ドアが閉じられた。いったい、何事だろう。ほんの数日前まで、明るく話しかけてきて、部屋にまで押しかけてきたというのに。
 理由は、一時間ほど経って、判明した。出迎えにでてきたマリエちゃんを抽斗に入れたわたしが、消臭剤を振るべく、再び抽斗を引くと、おさめたはずのマリエちゃんが、いなくなっていたのだ。昨晩と同じだ。わたしは周辺を捜す。狭い玄関。靴箱の下段、もうひとつの抽斗。ドアポストの内部。靴に紛れていないか。洗面所、居間、ベランダまで。けっきょく、どこからも見つからなかった。マリエちゃんは、消えてしまったのだ。いったい、何が起こっているんだろう。
 ふと息をついたそのとき、つんざくような金切り声がした。隣室。この声はアイコちゃんだ。火がついたように泣いている。続いて、アイコちゃんにも負けない、アイコママの叫び声。尋常じゃない。サンダルを突っかけて、部屋を飛び出して隣室のインターフォンを鳴らす。アイコママは頻繁にやってきていたけれど、わたしのほうから訪ねるのは、引越の挨拶以来だ。一度目のチャイム音が途切れる前に、アイコママは飛び出してきた。泣き喚くアイコちゃんを、細い腕に抱きかかえている。アイコママ自身も、化粧が溶けるほど涙を流していた。わたしが質問するよりも、アイコママが説明するよりも、廊下に転がっているマリエちゃんが、全てを物語っている。恐らく、昨晩帰宅した際と同様。マリエちゃんは、アイコママを訪ねて「行く」ようになってしまったのだった。

 アイコママは、細長い金バサミでマリエちゃんをつまみ、わたしへ返却してきた。
 一言も口をきかず、ドアは、静かに閉じられる。勿論、わたしの部屋と同タイプのドアだ。ドアポストは新聞が入る程度の幅しかない。マリエちゃんをどれほど巧妙に折り畳んだって、侵入は不可能だ。それに、廊下を転がっていたところをみると、今度はポストではなく、室内に出現したわけだ。
 自室へ戻ったわたしは、目の届く位置にマリエちゃんを置く。テーブルの上。彼女を相手に、お茶を淹れた。温かいお茶で手を温めながら、考える。どうして、マリエちゃんは「行く」のを覚えたのだろう。どれだけ誰かに奪われても、帰ってきてくれたマリエちゃん。誰からどんなに罵倒されても、可愛いねとお世辞をいわれても、恨んだり喜んだりして、「行く」ことはなかったはずだ。常に、わたしのもとへ、帰ってきた。収集車が運搬したはずの車から、ランドセルのなかに。生ゴミの袋から、枕元に。あのときは、ちょっと迷惑だったっけ。とにかくわたしはずっと、マリエちゃんの主だったはずだ。常識的に考えればおかしいと感じつつも、彼女を拒んだことはない。そういうものだと受け入れていた。アイコママがゴミ袋にいれたあとだって、どうせ帰ってくると、楽観視していた。祖母と同じように、わたしから取り上げて、アイコママはマリエちゃんをゴミ袋に押し込んだ。祖母の行動と一切変わらない。さいきんはマリエちゃんを捨てられることはなかったけれど、たとえ時間が経っていても、帰ってくるものだと確信していた。なにせ、八歳のときから、二十年近く、何度となく帰ってきたのだ。そう、八歳のとき。母に譲られてから。
 譲られた?
 わたしは、違和感を覚える。なんだろう。何か、見落としている気がする。お茶を啜り、マリエちゃんの黒ずんだ肌や、衣服を見つめる。相変わらず微笑を浮かべるマリエちゃん。八歳のとき。わたしは、母に、マリエちゃんをもらった。ねだって、手に入れたのだった。
 あのときの、母の言葉を思い出す。
 ――欲しいんだったら、
「そこに置いておくから、しまっておきなさい……」
 わたしは深々と息を吐いた。恐らく、母が所持していた頃から、マリエちゃんは既に「帰る」人形だった。母の「譲る」という行為が、わたしを新しい主にしたのだ。しかしながら、わたしは、アイコママにマリエちゃんを譲った覚えはない。じっと見つめて、
「いったい、何があったの?」
 彼女は、唇ひとつ動かさない。

 翌朝。ドアを開いたとき、金属の扉が、ゴツ、と何か固いものにぶつかった。視線を落とす。ドアの前に、プラスチック製の小さなかごが置かれている。こんなところに何だろう。雑多な品が詰め込まれていた。かごを拾い上げて検めてみれば、真新しいトイレットペーパーが一ロール。渇いて朽ちた観葉植物。毛羽立ったミニホウキ。インク半ばで壊れたボールペン、洗濯ばさみは割れ、彼からもらった安物の一輪挿しはひび割れて埃っぽい。いつぞや、我が家から消失した、特徴のない物たちに相違なかった。
 隣室を訪ねようか迷い、足踏みをしていると、仕事帰りらしいアイコママが、階段をのぼって、廊下を歩いてくる。わたしを見つけて、げっそり頬のこけた顔を、病みつかれたように上げた。
「ふざけんなよ」
 と、提げていたハンドバッグを、わたしへ投げつけた。かごを抱えつつ、投げられたハンドバッグを避けたわたしに、憎悪を露にしながら、ふらふらと近づいてくる。
「何なの、何なのよ! ふざけんなよ! 気持ち悪い! あんな人形押し付けやがって!」
「押し付けてなんか……」
「おまえが捨てさせたからだ! なんとかしろよ! 気持ち悪い、気持ち悪い!」
「そんな、」
 捨てさせたことが「行く」ようになった要因ではないはずだ。だったら、マリエちゃんはとっくに祖母の物となっている。祖母はマリエちゃんを、何度捨てたことだろう。
「色んなモン盗んだの、恨んでたんだろうが! とっとと出て行けばいいのに、うざいんだよおまえ!」
「な……」
「まるで動じてないみたいな顔しやがって! 出てけよ! 出てけ!」
 激昂するアイコママ。かごのなかの物が盗まれたのは、わたしへの、嫌がらせだったのだ。
「どうして」
「なんで、なんでなんだよ、もう全部返すから、もうやめろよ! やめろよおぉ……!」
 アイコママは、ついにその場にしゃがみ込み、項垂れ、号泣してしまった。
「おまえが悪いんだ、こっちはアイコと二人、がんばってんのに、がんばって、必死で暮らしてたのに、のうのうと、男なんて連れ込んで、楽しそうにして!」
 アイコママは泣き喚きながら、その辺りの床を手当たり次第に叩く。座り込んだ拍子に、パンプスのヒールが折れていた。ぼたぼたと涙がこぼれて、派手な装いが、化粧色に染まっていく。ぐしゃぐしゃになった顔で、
「あんな人形、触らなきゃよかった。怖がらせようなんて、しなきゃよかった……!」
 と、言った。
 わたしは、やっと理解した。アイコママは、マリエちゃんを拾ってしまったのだ。アイコママとマリエちゃんが、初めて接触したあの日。ゴミ袋に押し込まれたマリエちゃんは、予定ではそのまま、ゴミとして出されるはずだった。翌朝、わたしは、ゴミがなくなっているのを確認した。けれど、マリエちゃんはその場に残されていた。あれは、アイコママの仕業だったのだ。
 この廊下は共用で、わたしの領域ではない。本来、「帰る」のならば、マリエちゃんはそれこそ、わたしの部屋のドアポストや、もとあった抽斗に、入っているべきだ。それができなかったのは、マリエちゃんは自らの意思によって戻ったのではなく、誰かの手によってそこに戻されたから。
 帰ってきたら怖いよね、と笑ったアイコママ。アイコママは、わたしをいたずらに怖がらせるべく、一度ゴミ袋に詰め込んだマリエちゃんを、出して、置き去りにした。ちょうどわたしが出勤するときで、わたしはつい、自ら拾いに戻った事にしてしまった。アイコママはもしかしたら、置き去りにしたと種明かしをするつもりだったかもしれない。
「捨てたのに。……なんてね、びびった?」
 そんな風に、ちょっとした悪戯だった、とでも言おうとして。だって本当なら、すぐバレるような、ほんの些細な冗談だ。わたしが変な言い訳で、取り繕わなければ。
 わたしは、母の言葉を思い出す。
 欲しいんだったら、そこに置いておくから、しまっておきなさい。
 わたしは、アイコママの手によって捨てられていくマリエちゃんを、「手離した」。
 本来ならば「帰る」状態になるはずのマリエちゃんは、その場に置き去りにしようとしたアイコママによって袋から出され、「拾われた」。肝要なのは、わたしを怖がらせるために「欲した」部分ではないだろうか。
 マリエちゃんをねだったときの、母の顔を思い出す。複雑そうな、仕方ないなあといった表情。わたしはあのとき、マリエちゃんがどうしても欲しかった。譲られたのではないのだ。あれは母が手離し、欲しいと願ったわたしが拾った。そういうことだった。そう。最初から、マリエちゃんは「帰る」しかしていない。帰るべき主人のほうが、変わっていくだけだ。アイコママがマリエちゃんを捨てたのをわたしが拾っても、わたしをまた主人としないのは、わたしが欲していないからだろう。わたしのなかで、マリエちゃんの役割は終わっている。
 アイコママは、もう殆ど叫んでいた。叫びながら、折れて脱げたパンプスの片方を、わたしへと投げつけた。呆然としていたわたしは、パンプスが顔にぶつかりそうになって、咄嗟に顔を背ける。パンプスはわたしの腕にぶつかって、その拍子に、かごを取り落としてしまった。床に落下したかごから、中身がばらばらに飛び出していく。陶器の割れた音がする。
「謝るから、もう、限界なのよ。どれだけ捨てても戻ってくる! もう、もうやめてよおおおお!!!」
 立ち尽くすわたしの目の前で、アイコママは咽び泣き続けている。

「あれ? 引っ越し?」
 彼が、久しぶりにやってきた。隣室は引っ越しのさなか。荷物を運び出す大きな物音。駐車場にトラックが停まっている。
「実家に帰るんだって。岡山だったかな」
「へえ。直子、何やってんの」
 わたしは洗面に張ったお湯へ、裸に剥いたマリエちゃんを沈めたところだった。
「洗ってあげようかなって」
「はあ。このきったない人形?」
 なんでいまさら? と、彼は呆れ顔。わたしは使い古しの歯ブラシで、強めに肌を擦ってあげる。黒ずんでいた布地から汚れが浮いてくる。髪を梳かしてリンスをして、湯からあげたら、汚れはすっかり落ちていた。今までしなかったのが可笑しいくらい簡単だ。バスタオルで可能な限り水気を拭い、つるし干しにした。ついでに新しい服なんて、作っちゃったりして。赤いワンピース。白いレースの縁取り。胸元に、金のボタンがついている。きっとマリエちゃんによく似合う。完全に乾燥したのを確かめ、とても綺麗になったマリエちゃんに、新調したワンピースを着せてあげた。二十年も一緒にいてくれた彼女へ、ありがとう、という感謝を込めて。すごく可愛らしい。ちょっとくらい嬉しそうにしてくれていいのに。
 しばらく彼と時間を過ごし、夜、帰る彼を見送ったあと、思い出して、わたしは抽斗に、マリエちゃんを仕舞い込んだ。少し経ち、玄関のほうから、かすかな物音が聞こえた。
「あれ? 忘れ物?」
 玄関と部屋を隔てている戸を開く。明かりを点ける。しんと静まり返っている。誰の姿も見当たらない。ドアは、施錠されていた。
 ああ、そうか。わたしはつい、微笑んだ。そして、
「元気でね、マリエちゃん」
 彼女の旅の無事を願う。だって、岡山って遠いもの。

 マリエちゃんには、秘密がある。<了>

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