泡沫

「もう手袋はいらないね」

隣り合って電車を待つ彼が、ふいに呟いた。

3月末。朝から風もなく晴れていて、陽射しが眩しい。制服の上着から覗く手首から先は、いつも彼がしているグレーの手袋に隠されている。

「そうだね、今日はあったかいね。」

離任式に出席するために、久しぶりに学校を目指して、ふたり並んで駅のホームに立っている。周囲には誰もいない。

この路線の利用者といえば、自分たちのような学生か、街へ買い物に出かけるのに車が使えない高齢者か、だいたいその二択になる。平日の早朝は、どの駅でも数人の学生が乗り込んでJRとの接続駅を目指すのみだ。


高校入学から3年間、ほぼ毎日のようにこのホームで彼と電車を待った。クラスの違う彼とは、通学時間に言葉を交わすくらいしか交流はなかったけれど、勉強も運動も優秀で校内では有名人だった彼と話すのは楽しかったし、少しの優越感があった。

3年生になって、自分を含む大多数の学生が地元の大学への進学を目指すなか、彼が東京の大学を受験することを知った。閉鎖的な田舎の学校だから、大ニュースとして瞬く間に学年全員が彼の志望校を噂した。

無事に合格を果たした彼は、明日、東京のアパートへの引っ越しを控えている。


学校で久しぶりに顔を合わせたクラスの仲間も、そのほとんどが僕と同じ地元の大学へ行く。このあと美容室で髪を染めるとか、どんなサークルに入りたいかとか、みんな新しい環境への期待で明るい表情をしている。


式の間中、前に並ぶクラスをずっと見ていた。生徒会長を務めていた彼は、答辞を読むために壇上へ上がるので、最後列に座っている。呼名されて、登壇した彼は、いつもの穏やかな話し方で学校生活の思い出を語った。女子生徒や保護者のなかには、彼の言葉に涙を流す人たちもいるようだ。啜り泣く音が彼の声を遮るのを、僕は邪魔だなぁ、などと思っていた。


「…今日は手袋、してないんだ?」

年明けから、登校する日は毎日彼の両手を覆っていた手袋が、今日はなかった。

「うん、引っ越しの荷物に入れて、もう送っちゃったんだよね。」

「そっか。寒くない?」

「歩いてたら暖まったから暑いくらいだよ」

彼は毎朝、家から15分はかかるこの駅まで徒歩でやってきた。今日も家族の見送りは家で受けて、ここまで一人で歩いて来たのだという。

電車が来るまであまり時間はなかった。何か話さなくては。伝えたいことはいっぱいあるのに。けれど僕は、ついに言葉を紡ぐことはできなかった。


人気のないホームに、電車が滑り込んでくる。乗り込む彼の背中に向かって、

「元気でね」

そういうのが精一杯だった。

振り向いた彼は、寂しそうに笑っている。

「また会おうね」



夕闇に、彼を乗せた列車は遠ざかっていく。あとには白い月が照らす線路だけがのこされる。


この先の彼の人生で、きっと彼は僕のことなど忘れてしまうだろう。たった3年間、通学をともにしただけの同級生だ。高校時代を振り返るときに、こんなやつもいたな、と連鎖的に記憶の断片として思い出すくらいだろう。

彼が道に迷いそうになったとき、そっと背中を押せるだけの何かを、僕は彼に残せただろうか。口に出して、憧れや尊敬を、同級生の僕から伝えることは恥ずかしくてついにできなかったけれど。それでも。どうか。

届いてほしい。


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Cait-C様楽曲『泡沫』の、イメージ小説です。

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