不要不急と、いばしょ
明確な目的がある場所ではない
何かを”する”ための場所ではない
そんな"いばしょ"を
私たちはコロナの中でも開き続ける
もちろん最大限の警戒や注意を
場としても個人としての普段の暮らしの中でもしているということは前提の上で
"なぜ、いま開け続けるのか"と問われて
そこにある大切な何かをちゃんと言葉にしたい
***
いばしょを訪れてくれるひとりひとり、それぞれいろいろな”ニーズ”(あまり好きな言葉ではないがあえて)がある
たとえば…
コロナの影響で気軽に乳幼児を連れて行ける屋内の遊び場がないという親子
学校には行けないけど、誰かとかかわりたいという子ども
家族でも職場でもないところで、何をというわけではないけどただ誰かと話しをしたい大人
コロナで親子で過ごす時間が増えて、近すぎて少し距離をとりたいという家族
そして、そんな比較的言葉になるニーズだけじゃない
なんかわからんけどただここで遊びたい
なんとなく家でも学校でも職場でもないところにいたい
ふらっと立ち寄ってみただけ
暇だから …
そんな中にも、きっと一人一人の”ニーズ”や”必要”が
他人がわかる言葉にはならないけれど
確かにあるのだろう
どれが、”要”で”急”かなんて私にはわからない
かといって、どれかが"不要"や”不急”だとは思えない
"要"も"急"も、“不要”も”不急”も
他人には定義なんてできないと思う
それぞれのひとにとっての”要”と、”急”と、”ニーズ”がある
みんなで気をつけていこうという意識は大切だけど
そのうえで、どれがいま"不要""不急"なのか、どれを"要""急"とするのかを
判断するのは、それぞれのひとりひとりでしかないと思う
***
駅前のカフェを覗くと、満席だ
カフェにも、目的がなくてもいい
いばしょ、の要素があると思う
勉強するひと、仕事をするひと、スマホをするひと…
全員「帰って家でやりなさい」、と言ったら
きっと絶対にできませんという人はいないだろう
このご時世、どこにも行かないのが一番リスクがないことはわかっている
それでも
それぞれの”必要”があるから
カフェのような明確な目的のない”場”をみんな訪れている
私がかかわる片方の居場所(多世代ごちゃまぜの居場所)では
最近子どもたちが増えている
話してもいいし、話さなくてもいい
何かしてもいいし、何もしなくてもいい
誰かと関わってもいいし、関わらなくてもいい
ある意味、ここは子どもたちにとってのカフェのような場なのかもしれない
大人にも、子どもにも、そんな場はきっと必要なんだ
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大好きな、ミヒャエル・エンデの"モモ"の一節
時間を感じ取るために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じ取らないようなときには、その時間はないも同じだ。
"不要""不急"をそぎ落とした結果、感じる心を、
大切ないまの時間を、失うことがあってほしくない
"いばしょ"があることで
自分をそっと大事にできることで
何かを感じる心がまもられるなら
それは、私は絶対に”必要”な場であると信じている
この不確実な世界だからこそ
自分の感じ方が、道標になると信じている
“不要不急”が言われる世の中だからこそ
いま、いばしょという営みに
意味なんてなくてもいいけど確かにあるその意味を
少しずつ言葉にしていこう
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