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【小説】正子と傷だらけの幽霊(2)

 ぼんやり暗い狭い空間、お尻からひんやりした感覚がする。どこだっけ、そうだ、トイレに座ってるんだった。いつも昼ご飯を食べている中学校の五階のトイレ。
 頭がぼーっとする。ロックを外して個室から出た。
 トイレサンダルを脱いで上靴に履き替えようと思ったら上靴がない。誰か持っていってしまったのだろうか。仕方ないからフカフカのカーペットをそのまま歩いた。
 手洗い場には、陶器の可愛らしい女の子の人形が置いてある。
「あ、正子ちゃん、こんにちは」
 明るく声をかけてくれたのは、正蓮教のお姉さんだった。
「あれ、未来みくちゃんだ、こんにちは」
 未来ちゃんは、きれいでいつも明るくて優しいお姉さんだ。正蓮教の子供たちをまとめている。確か年は二十代後半くらいだった。
「会合始まるよ」
「うん」
 正蓮教の会館の中には礼拝室がいくつかあり、毎週どこかでなんらかの会合が持たれている。今日は正蓮教の十代の女の子たちが集まっていた。
 始めに、未来ちゃんを導師どうしに読経する。
 そのあとは正蓮教の指導者、大河おおかわ先生のDVDを見て、小グループに分かれてディスカッションするのがいつもの流れだ。
 未来ちゃんが「最近はみんなどう?」と聞くと、
「高校受験に向けて勉強と信心を頑張ってます」
「お母さんと一緒に布教活動に行ってます」
「先生のご指導を読んで、頑張らなきゃって思いました」
 それぞれが口々に頑張ってることを言っている。それに比べて自分は……。
「正子ちゃんは?」
 いつのまにか自分の番が来ていた。どうしよう、毎日のお祈りはしてるけど、何も出来てない。
「わ、私は……」
 言い始めたら涙がポロリと落ちた。
「どうしたの?」
 みんな心配して集まってきた。未来ちゃんは正子の背中に手を添えてくれた。
 クラスのみんなに無視されていること、それでも頑張って毎日お祈りして学校に行っていることを涙ながらに話した。他の女の子も、目をうるうるさせながら聞いている。
「すごい、頑張ってるね、正子ちゃん」
「えらいよ、正子ちゃん」
 みんなが励ましてくれている。胸の痛みが少し和らぐように感じた。
「いじめる方が100%悪いんだよ。いつか絶対に罰が当たるよ」
「そうだよ、そうなってようやく相手はこの信仰の正しさがわかるのよ」
「それまで、一緒に頑張ろうね正子ちゃん」
 涙を流しながら大きく頷いた。
「うん、美里ちゃんと真ちゃんと瑠花ちゃん、それにクラスのみんなに罰が当たって、間違いに気づくまで頑張る」

 目が覚めると、薄ピンクのカーテンが風に揺れていて、天井の蛍光灯が見えた。どうやらベッドに寝ていたらしい。
「正子ちゃん、気がついた?」
 声のする方を見るとヤチルがこちらを見ていた。
「よかった、目が覚めたのね。貧血かしら、突然気を失ったのよ」
「……貧血?」
 頭が回らない。ここは保健室? 保健室の先生はどこにいるの。
「熱はあるかな」
 ヤチルが正子の額に手を伸ばした。
 瞬間、ベンチに座っていた時のことを思い出し、背中がゾワっとなって跳ね起きた。
「ダメよ、まだ寝てなきゃ」
 ベッドの横に置いてあった上靴を必死に履いた。
「だ、大丈夫! ヤチルさん、ありがとう。今日はもう帰るね!」
 急いで保健室から駆け出した。背中に視線を感じる、足がもつれそうだ。
 廊下にも昇降口にも誰もいない。靴を履き替えて、明るい出口へ飛び出した。

 校門を出ても、ヤチルが追ってくるような気がして必死で走った。
「ハア、ハア、ハア!」
 だんだん走りが遅くなる。振り返って誰もいないのがわかると、ようやく安心して立ち止まった。
(めちゃくちゃ走ったな)
 息は苦しいのに、頭はやけにクリアだ。
「ハア、ハア」
 自分の息づかいがよく聞こえる。そうか、周りに誰もいなくて静かなんだ。
 通りには車も走ってない。田んぼにはレンゲソウとシロツメクサ、道の隅にはスミレがちょこちょこ顔を出している。モンシロチョウがヒラヒラ飛んでいるのが見えた。
「なんか、平和……」
 とぼとぼ歩いていった。

 ようやく家に到着した。
「あ、鍵」
 そういえば、荷物は全部学校に置いたままだ、お弁当も食べてなかった。
 ヤチルの顔が近づいた時のことを思い出して、頭をブンブン振った。
「うぅ、なんで……」手で顔を覆った。
 なんでいきなりあんな、というかアレがファーストキス? あの子はなんだったの。
「もしかして、私のこと……」
 言いかけてやめた。そんなことあるわけない。
 仕方ないから家の裏に回って、空いている窓から泥棒のように入り込んだ。
 冷蔵庫から麦茶を出してゴクゴク飲んだ。
「ぷはあー」
 走って熱くなった体に沁みわたる。お腹も空いたので、戸棚からお菓子を引っ張り出して食べた。
 テレビをつけると知らない番組が流れた。
(へー、昼間はこんな番組やってるんだ)
 今頃、みんなは授業中、お父さんは仕事、お母さんは正蓮教の会合かな。
「ふぅー」
 体の緊張がほぐれた気がする。ドッと眠たくなった。
 制服を脱ぐのもめんどくさい。ベッドにドサッとうつ伏せになって、目を閉じた。
(はあー、気持ちいい)
 いつだっけ、ぐっすり眠れたのは。そういえば最近は眠れてなかった。

 どれくらい時間がたったのだろう、玄関が開く音がした。
「正子ー! いるのー?」
 声が遠くで聞こえ、正子は眠りから引き戻された。近づいてくる足音が聞こえる。
 ガチャ!
「何よ、正子いるんじゃない!」
 うるさいなあ、今気持ちよく寝てたのに。
 ドアを開けて入ってきたのは母親の美知子だった。
「何、お母さん……」
「何じゃないでしょ、今日学校を抜け出したんだって?!」
 え? 何を言ってるの。私、貧血で倒れたから帰って来たのに。あれ、そういえば、私、どの先生にも会わずに、帰ってきた。
 さーっと血の気が引いた。
「え! わた、私、貧血で倒れて、そ、早退して、え?!」
「は?! 貧血で倒れたって、体はなんともないの?」
 二人ともパニックだ。
「さっき学校から連絡があったのよ、正子が昼休みくらいから姿が見えないって。お母さん会合切り上げて帰って来たんだからね」
 先生には何も伝わってなかったんだ。
「はー、とにかく、学校に電話してくるね」
 美知子は深くため息を吐くと、ぐったり部屋を出て行った。

 夕方、美知子が運転する車に乗って、学校へ向かった。
 職員室では担任の斎藤先生が待っていた。ふっくらしていて、少しハゲてて、いつも穏やかな先生だ。怒られるかと思ったら、先生は笑顔で出迎えてくれた。
「貧血だったんだって? 大丈夫かい。いやーまさか正子さんが居なくなるとは思わなかったよー」
 齊藤先生はそう言って笑ってくれた。少しホッとする。
「本当にすみませんでした」
 親子で深々頭を下げる。
(でもなんで、ヤチルさんは先生に伝えてくれなかったんだろう、できれば明日会いたくないなぁ)
 頭を上げながら、そんなことを思った。

 荷物を取りに、美知子を車に待たせて教室へ向かった。廊下には、吹奏楽部の楽器の音が響き、グラウンドから運動部の掛け声が聞こえた。
 教室はガランとしていた。
「あれ」
 自分の机の上に何か置いてある。弁当箱だ、ヤチルが置いたのだろうか。持ち上げると軽かった。不思議に思ったが、美知子の待っている車へ急いだ。
 足早に廊下を歩いていると、途中の教室から声が聞こえてきた。
「この声、どこかで……」
 教室の中をチラッと見た。
(ひっ)
 思わずしゃがんだ。夕焼けに染まった教室の中には、金色の髪の少女が佇んでいた。
 心臓がドッドと動く。
「ヤチルー、腹減ったんだけど」
(あれ、もう一人誰かいる?)
 違う女の子の声が聞こえた。
「ハルはすぐお腹が空くのねー」
「オレはそんなに食べてない、まず飯が少ないんだよ、お前は今日いっぱい食べただろ、なんだっけ、マチコちゃんだっけ」
「ちーがーうー、正子ちゃん」
(え、今、私のことを話してる?)
 気づかれないようにそーっと教室の中を覗いた。
 正子は目を見開いた。
 オレンジ色の大きな窓、黒いシルエットの二人の少女がキスをしている。
 あっ、と声が出そうなのを手で押さえこみ、しゃがんだまま歩き出した。階段まで辿り着くと、一気に駆け降りた。
「あの子、誰とでもあんなことするんだ! 信じられない!」
 別に何とも思ってないけど、本当に何も思ってないけど、まるで裏切られたような、変な気持ちがした。

 教室の中では、正子が歩いて行った方を、ヤチルが見つめていた。
「今、正子ちゃんがいたわ」
「ああ、今のが」
 ヤチルが教室の窓を開けると、正子たちを乗せた車が、校門を出ていく所だった。
「もっと友達になりたいなぁ」
 ヤチルは微笑んで車を見送った。

(つづく)

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