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【小説】正子と傷だらけの幽霊(7)

 これからヤチルとハルが来る。正子を迎えに。
 約束の時間が近づいてきた。夕方といってもまだ明るく、草むらの虫も夏を楽しんでいるように賑やかだ。田んぼの蛙もだんだん声を大きくしてきた。

「よし、これで全部入れたかな」
 修学旅行の時に買った大きなリュックにお泊まりの荷物を詰め込んだ。
「正子ー! ヤチルちゃんとハルちゃんがきたわよー」
 母の美知子が正子を呼んだ。
「はーい」
 出て行く前に鏡で自分をチェックする。買ったばかりの白のチュニックと水色のGパン、それと髪型。
 学校に行かなくなってから誰かと外に出るなんて久しぶりだ。この日のために美容院に行き、ヨレヨレだった服や下着も新しく買った。
 少し気になるのは、重たいおかっぱ頭を軽くしたくて、短く切ってくださいと美容師さんに言ったら思っていた以上に髪を切られたことだ。
 美知子は正子を見るなり「あら、男の子かと思ったわよー」と笑っていた。

 玄関には二人の姿があった。
 いつもは学校の制服姿だけど今日は私服だ。当然と言えば当然か。
 ヤチルはキャミソールにフリルがついたミニスカート姿でいつもより魅力的に見えた。ハルは大きめのTシャツに短パンをはいていて綺麗な足がすらっとしている。
(う、今からこの二人と歩くの?)
 自分が野暮ったく思えてきた。
「正子ちゃん髪切ったのね、可愛いわ」
 ヤチルから光が発せられてるみたいに眩しい。
「あ、ありがとう」
 私今わらえてる?

「じゃあ行ってくるね」
「いってらっしゃい」

 手を振る美知子をあとに三人は夕日に染まる田舎道を歩き出した。
「ねぇねぇ、今日は何食べたい?」
 ヤチルが聞いてきた。
「え、すぐに思いつかないな……」
「正子の好物ってなんなの?」
 今度はハルが聞いてくる。
「え、えーと、ホットケーキとか……」
「ふーん?」
 心を食べる二人にホットケーキは伝わったのだろうか。
「ホットケーキってあれだろ? あのー、小麦を挽いた粉を、牛の乳と混ぜて焼いたやつだろ?」
「え?」
 思わず吹き出してしまった。
 まさかそんな風に返ってくるとは思わなかった。牛の乳って、何時代のひとなの。
「なんだよ、なんかおかしかったか?」
「ハル、鶏の卵も入れるのよ」
 ヤチルも笑ってるけど、違う、そういうことじゃない。
「そんなに面白かったか?」
 くつくつ笑いが込み上げてくる。久しぶりだ、こんなに笑ったの。

 満月神社が見えた。三人はどんどん神社に向かっていく。
(え、まさかこのまま神社の中へ入っていくの? 神様の使いだとは聞いていたし、不思議なこともあったにはあった。でも本当に? 本当にここなの?)
 ヤチルとハルが鳥居の中へすーっと入って行く。正子は足が止まってしまった。
 夕方の鳥居は昼間とは打って変わって気味が悪い。おばけの世界への入り口みたいに感じた。鳥居の向こうに見える神社もなんか怖い。
「正子」「正子ちゃん」
 神社の奥から二人が呼んでいる。
「や、ヤチルさん、ハルさん、ほ、本当にここがお家なの?」
 返事がない。二人は先に進んでしまったのだろうか。もしかしたら脅かすつもりだろうか。
 勇気を出して中に入った。意外と中に入ると気味の悪さが薄まったような気がする。見上げると、黒い木々の間から、小さいころ作った朝顔の色水のような赤紫色の空が見えた。
「正子ちゃん、こっちよ」
 声がする拝殿脇の奥へ歩いていくと、暗い森陰に二人の姿が妙にくっきりと見えた、と同時に体が固まってしまった。
 いつの間にか正蓮教のお経を心の中で唱えていた。
 まだ信じていたかったのかもしれない。神様の使いとは嘘で、本当は同じ学校に通う同い年の女の子たちだって。
 全身から冷や汗が吹き出る。
 ジーッという途切れることのない虫の声、大きく聞こえる蛙の合唱。自分に伸ばされる二本の白い腕。
「正子、ほら、手を取れ」
「大丈夫だから」
 震える手を二人の手に重ねた。自分の手が黒に近い茶色に見えた。
 ヤチルとハルは優しく正子の手を掴むと、前へ進んでいった。

 神社の境内はこんなに長かったかしらと思うくらい奥行きがあった。
 足元はよく見えないが、ガサガサと落ち葉を踏むような音が聞こえた。ただ前を歩くヤチルとハルが闇を照らす灯りのように優しく光っている。
「ついたぞ」「ついたわ」

 森を抜けると静かな昼間だった。
 池のほとりにいつの間にか立っていた。池の周りは巨木の原生林が囲っていて、人が入っては行けないようなおごそかさがあった。
 あまりにも静謐せいひつな空気に、ため息が出た。
 池の真ん中に島があった。島の上には平安時代のお姫様が住んでいそうな寝殿造しんでんづくりの屋敷があり、空からの光を受けて神々しく見えた。
「ようこそ、私たちのうちへ」
 ヤチルが微笑む。
「う、うち? あれが?」
「そうよ、きれいでしょ」
「うん……、きれい……」
 いろんな疑問が吹っ飛ぶほどに目の前の景色は美しかった。

「すきありっ」チュッ。

 正子はひざからくずれた。ヤチルが突然キスしてきたのだ。後ろから正子の身体をハルがなんとか支えてくれていた。
「バカッ、いきなり喰うやつがあるか!」ハルが怒った。
「ごめんね正子ちゃん。景色に感動するあなたの心が美味しそうで、これを逃したら食べられないと思ったものだから」
「大丈夫か? 正子」
「う、うん……」
 そうだった、ヤチルはこういうところがあるんだった。心を食べられるのも久しぶりだ。

 島までは太鼓橋たいこばしを渡っていく。橋の下を見ると澄んだ水が目を満たした。
 橋を渡り屋敷の前まで来ると、太い柱や大きな屋根がより立派に見えた。
「さっ、靴を脱いで上がって。正子ちゃんが泊まる部屋を案内するわ」
 ヤチルが先を歩いて部屋まで案内してくれた。
 屋敷の中を歩くと上品なよい香りがした。どこからか琴の音色も聞こえてくる。
「ヤチルさんたちの他に誰かいるの?」
「ああ、召使いがいるの」
 ヤチルとハルはすごいお姫様なのかもしれない。こんな庶民の私が来て良いところなのだろうか。

 正子が泊まる部屋に通された。
 部屋にはほとんど壁がなく、寝る場所だけ壁と畳があった。その他は板間になっている。
 壁がないので周りの景色がよく見えた。美しい池と、満開の桃の木が野に花びらが散らしている。そういえば夏なのに暑さを感じない。丁度いい温度だ。
「あら、ありがとう、気がきくわね」
 ヤチルの足元に小学生の子供くらいの白い生き物が、おぼんを持って立っていた。
「へ?」
「お茶を持ってきてくれたのよ、正子ちゃん」
 召使いは目も鼻も口もない顔でマシュマロのような柔らかい体に短い手足が可愛らしくくっついている。
「あ、ありがとう」
 お茶を受け取った。
「もうしばらくしたら夕飯にするからちょっと休んでてね」
 そう言うとヤチルは行ってしまった。
 正子はペタンと床に座ると、身体に絡みついた糸がほどけていくように力が抜けた。お茶の温かさがありがたい。
 しばらく桃の木を見つめながらボーッとした。

 夕飯の時間になったのを知らせに、召使いが正子の部屋まで来た。言葉はしゃべらないのに伝えたいことがなんとなくわかる。
 ついていくと博物館で見たようなお膳にホットケーキとミルクが用意してあった。
「ホットケーキだ」
 奥からヤチルとハルが出てきた。
「召使いの中に作り方を知ってるやつがいたんだ。オレも初めて食べるから楽しみだ」
 ハルはどかっとあぐらをかいて座った。ヤチルはその横にゆったりと腰掛けた。正子はちょこんと腰掛けた。
 召使いたちがナイフとフォーク、それからシロップを持ってきてくれた。ホットケーキは焼きたてでホカホカだ。上には大きなバターがとろけていて、いい匂い。シロップをたっぷりかけて、大きくナイフで切ってほおばる。口いっぱいに柔らかな甘味とバターの風味が広がった。
「美味しい」
 バターと一緒にとろけてしまいそう。
 夕飯に甘い物なんて普段なら怒られそうだ。
「よかった」
 ヤチルがニコッと笑う。
 召使いの中に、ホットケーキの作り方を知ってるやつがいるとハルは言っていた。召使いはみんな同じに見えるけど、違うのだろうか。
「召使いのこの子たちはね、もともと人間だったのよ。死んだあとここで働いてるの」
 聞きたいと思ったことにすぐ答えてくれる。やっぱり心を読まれてる?
「そうなんだ、だからホットケーキの作り方を知ってるのね。え、死んだらみんなここに来るの?」
 ふと、恐ろしい想像が頭に浮かんだ。まさか私も死んでるなんてことある? 背筋が寒くなった。
「人間は死んだらお迎えが来て、自分が行きたいところに行くのよ。お休みする魂もあるし、この子達みたいに働いたり、自分が生まれたいところに生まれたりするの。正子ちゃんにお迎えが来るのはずっと先よ」
「そ、そうなの」よかった。
「うまい! なんだこれスゲエうまい」
 ハルが大きな口でホットケーキをほおばった。
 心しか食べないと思っていたけど、普通の食べ物も食べれるのか。

 そこへ青い小鳥が一羽、正子の元へ飛んできた。
「わあ、きれいな鳥。どこから来たの?」
 小鳥は正子を見つめると、突然母の声で「正子、ヤチルちゃんちには着いたの? お世話になるから持たせたお土産もしっかり渡すのよ。連絡ちょうだいね」と喋り出した。
「ひぃ!」目を見開いて後ろに後ずさった。
「コトハトリね、お母様からのメッセージを届けてくれたのよ」
 心臓がバクバクしている。
「こ、ことは、とり?」
「そう、この世界では心やエネルギーなんかがこういう目に見える形になって現れるの」
 そういえば、携帯を持ってきたけどここじゃ使えないのかもしれない。ポケットから携帯を取り出してみるとやはり圏外になっている。
「返事をするにはどうしたらいいの?」
「お母様を思い浮かべて、その鳥に返事を言えばいいのよ」
 小鳥に手を差し出すとピョコッと手のひらに乗ってきた。
「お母さん、や、ヤチルさんちに着いてるよ。大丈夫だよ」
 言い終わると小鳥はパタパタ飛んでいった。

 夜のはずなのにずっと昼間だ。
 夕食のあと、しばらくしてから寝床についた。寝るためだけのこぢんまりとした畳の部屋に、御簾みすを降ろすと少しは薄暗くなった。
 眠れないかと思いきや、いい香りのするふかふかの布団にくるまると途端に眠たくなり、緊張がほどけて、どろのように寝た。

 誰もいないはずの御簾の内側に、寝息をたてて眠る正子を見下ろす黒い影があった。

(続く)

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