【小説】正子と傷だらけの幽霊(1)
鳥居の中から吹く風がふわりと頬を撫でていった。神社の縁は明るく、参道には春の木漏れ日が柔らかく落ちている。
もし、今日学校に行かなくて、ここに隠れていたら誰にも見つからないかもしれない。でも、そんなことしたらダメだ、神社に行くと良くないことが起きる。
そんな葛藤をしながら、今日も正子は神社の前を通り過ぎて学校へ向かった。
正子の家は正蓮教という宗教をやっている。地域のお寺や神社も含め、他の宗教は悪い宗教だと教えられていた。同じ正蓮教の家の子が、地域のお祭りに出たら蜂に刺されて顔が腫れてしまったと聞かされたこともあった。
仏壇には、正蓮教のご本尊が安置されている。お祈りの仕方はご本尊に向かって正座して合掌し「南無正蓮経」と唱え続けるのだ。
今朝も母と並んでお祈りした。毎日するので正座には慣れっこになっていた。
正子が通う相山中学校が、田んぼの中に見えてきた。
田んぼにはレンゲソウが一面に咲き、その周りを縁取るように、シロツメクサが畦に咲いている。
中学一年生になり、まだなんとなく慣れない昇降口。身を屈めて下駄箱から上靴を取ろうとすると、メガネがズレた。
肩くらいに髪を伸ばすボブスタイルが、女子の間では流行っていて、周りを見るとみんな似たような髪型だ。正子もそうしてみたが、重たげなおかっぱ頭になっただけだった。背が低く、少しぽっちゃりしていたから、コケシみたいだねと母が笑った。
教室の前につくと、深呼吸をしてドアを開けた。
「おはよう」
自分が思っていたより声が出ない。
クラスメイトたちは一瞬正子を見るけど、返事をするわけでもなく、またおしゃべりを始めた。
きっと聞こえなかったんだ、そう思うことにした。
十日前のこと。仲良くしていた真ちゃんと瑠花ちゃん、そして、少し気が強いけど明るくて人気のある美里ちゃんと、教室の後ろで話していた時だった。
真ちゃんが「ねえ、小澤莉花って知ってる?」と聞いてきた。
小澤莉花は、今は違うクラスだけど、正子と同じ小学校出身で同級生だった。
相山中学校は、相山小学校と相山南小学校の学区の生徒たちが通っている。正子は山間部に近く、生徒数が少ない相山小学校の出身だった。
美里ちゃんたちは町の方にある相山南小学校の出身だ。
「小澤莉花ちゃんなら知ってるよ」
真ちゃんがニヤッと笑った。
「小澤莉花ってどんな子だったの?」
どんなと言われても、正子はそこまで親しいわけではなかった。よくポニーテールにイチゴのヘアゴムをしているのを見かけた。明るくて可愛らしい感じの子で、自分とは違うなと思っていた。
「あんまり話したことないけど、良い子だよ」
美里ちゃんの眉間にシワが寄った気がした。
真ちゃんが続けた。
「本当に? あの子、噂だと人の物盗んじゃったり、男子に媚び売ってんだって」
「そうなの?」
そんな話はじめて聞いた。確かに莉花ちゃんは男子とも仲が良さそうだった。でも媚を売る? 自分が気づいてないだけでそうだったのだろうか。
真ちゃんが声をひそめた。
「家が大変らしいよ、だからそんなことするのかも」
「大変?」
「さあ、詳しくはわかんないけど、親が離婚しそうとか、お金がーとかそんなんじゃない? まあ、噂だけど」
楽しそうにしゃべる真ちゃんの顔が歪んでいるように見えた。
「え、なんで? よく知らないのに、そんなこと……。小学校ではそんなの見たことないし聞いたことない」
言ってから自分でも驚いた。まるで怒ってるみたい。
真ちゃんが、真顔でへーっと言った。
「行こ」
美里ちゃんがそう言うと三人は教室から出て行った。ピシャリと教室のドアが閉まる。
「え?」
何がおこったの? 誰か、今起こったことを教えてよ、と辺りを見回しても誰もこちらを見ていなかった。
自分の席に座ったが、心細くて居心地が悪かった。
次の日から正子は、三人から無視されるようになった。またその次の日にはクラスの女子たちも正子に話しかけなくなり、男子まで素っ気なくなっていった。
昼休みになった。
お弁当を持って賑やかな教室を、気配を消すようにして出た。
ここ最近は五階の女子トイレでお昼ご飯を食べている。五階は音楽室や美術室、視聴覚室など、昼休みの間は使われていない教室ばかりなので、他の生徒はほとんど来ない。
トイレの個室に入るとホッと一息ついた。電気をつけていないからやや薄暗い。窓から差し込む光がわずかに温かく感じられた。
あと半日だ。
昼休みが終わる頃、また静かに教室に戻った。
自分の机に向かう途中に美里ちゃんたちがいる。目を合わせないよう顔を下に向けて、なんとか通り過ぎた。
その時、聞こえるか聞こえないかくらいの声で話しているのが聞こえてきた。
「トイレの正子さん」「お化けじゃん、アハハ」
え、今、私のことを言ったの?
手足から力が抜けて、ヨロヨロと席に座って身を縮めた。
帰り道、一人で歩きながら、頭の中で美里ちゃんたちの声が何度も巻き戻された。
『トイレの正子さん』『お化けじゃん、アハハ』
胸が苦しくなる、涙がポロポロ溢れてきた。
いつのまにか、神社の前まで歩いてきていた。その時、道の先から自転車がこちらに向かって走ってきた。咄嗟に鳥居の中に身を隠した。
「あっ」
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、つい入ってはいけない場所に入ってしまった。
後ろで自転車が通り過ぎる音がした。引き返すこともできるけど、こんな顔で道を歩きたくない。
「お、お詣りしなければ大丈夫って聞いたこともあるし」
自分に言い聞かせるように呟いて、なるべく人に見られないように拝殿の脇へ入っていった。
進んでいくと、小さな赤い鳥居と祠が見えてきた。
「神社の中に神社がある」
祠には、白い狐と黒い狐の置き物がある。その祠の石段に腰掛けて膝を抱えた。
「もう、やだな」
涙を止めたいのに溢れてくる。
正蓮教では、辛いときこそ絶対負けてはいけないと教えられてきた。どんなに苦しくとも祈り抜いて勝利し、この信仰の素晴らしさを伝えていくのだ。
「でも、いつまで、頑張ればいいの」
一ヶ月? それとも半年、一年? どれだけ祈り、教えのままに生活したら報われる日が来るのだろう。一週間でも心が折れそうなのに。
「優しい友達がいてくれたら、助けて、くれるかな」
もともと友達がいなかったわけじゃない。ただ小学校からの友達は他のクラスになり、新しいクラスメイトも、あの三人から無視されてからは正子に冷たくなった。
「友達がほしい……」
涙はなかなか止まってくれなかった。
次の日、朝早く起きて、仏壇の前に座り、お祈りをした。昨日、神社に入ってしまったから、いつもより長くお祈りした。
(昨日は神社に入ってしまいすみません。いつもありがとうございます。どうか、クラスのみんなと仲良くなれますように、美里ちゃん、真ちゃん、瑠花ちゃんとまた仲良くなれますように、三人の幸福をお祈りしています)
登校中も、心の中でお祈りした。お祈りしていないと、崖にぶら下がっているロープから手を放して、落ちて行ってしまうような感じがした。
学校の昇降口に着くと、ため息が出た。
(負けない、負けない)
心の中で呟きながら深呼吸して教室のドアを開けた。教室に入ると、数人の子が正子を見て見ないフリをした。
(大丈夫、大丈夫、私にはご本尊さまが付いてる)
そう思いながら息が苦しくなった。
自分の机に到着し、カバンを下ろした。
「おはよう」
カバンからペンケースを出した。
「ねぇ、おはよ、正子ちゃん」
手が止まった。
え、今私に誰か話しかけてる?
体がギクシャクしながら、声のした方を向いた。
そこには、金色の髪の美少女が微笑んでいた。
「えっ、あっ、お、おはようございます……」
「ふふっ、おはよう、正子ちゃん」
こんな子はいなかった、一体誰だろう。それになんで私の名前を知ってるの。
「名前、机に書いてあったからすぐわかったわ。私はヤチル、今日転校してきたの。お父さんがロシア人なのよ」
そうか、転校生か。突然でびっくりしたけど、久しぶりに優しく話しかけられたことが嬉しい。
「よ、よろしくね。えと、ヤチルさん」
「よろしくね、正子ちゃん」
先生が教室に入ってきた。これから転校生の紹介をするのだろう、と思っていたのに、先生はいつものように朝の会をはじめた。それに他の子たちも全然ヤチルの方を見ていない。
とうとう授業が始まってしまった。ヤチルは机の上にえんぴつも教科書も出していなかった。
「ヤ、ヤチルさん、教科書、もしかして忘れたの? 私の一緒に見る?」
するとヤチルはにっこり笑った。
「いいのよ、私は先生の授業を聞いてるだけで」
そう言いながら、頬杖をついて外を見ていたり、大きく伸びをしたり、授業を聞いているようには見えなかった。
(なんて自由な人なんだろう……)
窓から入った風が、みんなの頭を撫でていく。ヤチルの金色の髪もふわりと揺れた。その横顔は、美しい絵画みたいだった。
気づいたら午前中が終わっていた。
となりを見ると、ヤチルは眠たそうにしていた。
「ヤチルさん、もし良かったら、お昼ご飯一緒に食べない?」
すると今まで眠たそうにしていたヤチルの目がパッと明るくなった。
「ええ、ぜひ一緒に食べましょ!」
お腹が空いていたのだろうか、ヤチルは正子の手を取ると、教室の外へ連れ出した。
少し恥ずかしいけど嬉しかった。願いが叶ったのだ、これが毎日お祈りしてきた功徳なんだ。
正子とヤチルは校庭に出て、ケヤキの木陰が涼しいベンチに腰掛けた。
お弁当を開くと、母が作ってくれた卵焼きや唐揚げ、プチトマト、ふりかけのかかったご飯がいつもよりキラキラして見えた。それはそうだ、今日はトイレの中ではないのだから。
「美味しそうなお弁当ね」
お弁当を覗き込む。
「あれ、ヤチルさんのお弁当は?」
見ると何も持ってきていなかった。
ヤチルはニッコリしたまま顔を上げた。顔が近い。
(うわぁ、本当に美人だなぁ)
ヤチルはさらに微笑んだ。
「私、正子ちゃんに会えて嬉しい」
顔がグッと近づいたかと思うと唇に柔らかい感触がした。
次の瞬間、頭がぐらりと重くなり、背中を打ったように感じた。ケヤキの若葉が綺麗に見えた。
次に気がついた時には、いつものトイレの中だった。
(つづく)
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