ウィーンで浮かんでは沈んでいった思念-3
歴史的かつ文化的概念としてのバロックは、とくに目につきやすい建築では、16世紀のイタリアに端を発し、フランスに飛び火し、そして18世紀にはオーストリア・ハプスブルク帝国に花開いた。
その首都ウィーンには宮殿や教会がバロック形式で数多く残されている。シェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿、そしてカールス教会などである。
わが国人の文化的感覚では、わびさびを美の基準とし、バロックのような装飾過多なものを善しとはしない。しかしわたしはそれを承知したうえでバロックを愛する。
39年前、ハイデルベルク市で婚姻届をだし、わたしと妻は義母の所有する黄色いフィアットを駆って、南ドイツバロック教会巡りをした。それがハネムーン旅行というわけだった。
シュワーベンとバイエルンの主だったバロック教会はひと通り見学した。Neresheimの修繕が完成したばかりの修道院、その教会だけが目立つばかりで他に何も無い村・Steinhausen、そして我々が訪ねたその年の6月に指揮はバーンスタイン、オケと合唱はバイエルン放送交響楽団と合唱団でハイドンの『天地創造』が演奏録画されたOttobeuren修道院のバシリカ聖堂などなど、南ドイツのバロック文化に酔いしれた。
余談だが、上記『天地創造』はDVDで鑑賞できる。演奏とともにその舞台となったバロック教会の装飾に注目してほしい。
もしバロックがお嫌いともなると、ハプスブルク帝国が作り上げた文化の総体への理解を欠くことになる。オーストリアを中心に南ドイツ、ボヘミア、ハンガリー、北イタリアを含む大きな一帯、しかも欧州文化の中心ともいうべき地帯は、あえて誇張していうなら「バロック文化圏」なのである。
長くなりそうだし、この文の核心にふれる部分に至るにはまだ助走が必要なので、ここで打ち止めとし「後に続く」としたい。