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未来は約束されている

ついに夫は今日、入院した。「無事に入院できた」と言った方がぴったりくるかも。なんだかここまで長かった。

もちろん、入院した後、今のご時勢で、面会も見舞いもできない。

脳と鼻と目の3箇所に渡る大手術を受けてICUに5日間もいる予定の患者の身内が付き添えない、会えない、それなのに病院にはいなくてはいけない日がある、というのは、腹立たしさはもはやないけれど
なんだかむごい世の中だなぁ、理不尽だなぁと思う。

そして初めての体験だけど、そういう、大切な家族がもっとも痛みに苦しんでいるであろう時期にそばにいられないというのは、かなり家族の方もつらい。

これから夫が1ヶ月過ごす病院の前で。

前回note記事を書いてから1週間。日々、夫は不安や緊張を募らせながら、約1ヶ月に渡る入院のための様々な準備をしていた。持ち物、着替え、病院から指導された呼吸の練習?などなど。

そしてもちろん、日々は、二世帯住宅の1階に1人で住んでいる義母のケアで過ぎて行く。まだかろうじてほとんどの時間、一人でいても大丈夫で、外を徘徊することもなく、家の中の徘徊にとどまっているけれど、朝昼晩と食事を届ける生活は、子供を作らなかった私達、そして1日3回も食事をする習慣のない私達には正直、面倒だ。それでも何を持っていっても「わあ美味しそう!」「美味しい!」と言ってくれる義母を見ると本当に癒される。(実母は真逆の人なので)

まあ大変なのは、やはり会話かな。
例えば薬飲ませる時に
「これはなんの薬?」と聞かれて
答えると「そうなのね」  
その1秒後に
「これはなんの薬?」
また答えると、
「そうなのね」

また1秒後に
「これはなんの薬?」

これを延々とやるのもかなりしんどい。でも最近はちょっとこのループから抜け出す技を私も取得してきた。

でもこういう認知症のやりとりを冷静にするのは、血の繋がった家族の方がやりにくいかもしれない。
実母だとついつい声を荒げてしまう。

そんなこんなで、色々同時に起きている上、仕事もあるし、すべてを完璧にするのは、はなからあきらめているので、義母と実母の両方の住居に何台か設置した見守りカメラという素晴らしい現代の技術に助けられている。

それでも、この冬から私達の生活は以前とはまったく変わってしまった。

加えて、実父の死後の諸手続きの大変さ!!!話には聞いていたが、なぜこんなに大変なことになっているのか疑問なものもとても多い。銀行口座の処理のために父の戸籍謄本を取るだけでも、生まれてからのものを全て用意しなければならず、それが各市町村に渡っているため、いちいちたくさんの書類を用意して郵送してもらうのだが、その料金が「いくらかかるのかわからないから適当に多めに送っておいてください」などと役所に言われるのだ。なぜそのあたりは、役所同士でやりとりしてくれないのか大いに疑問。そんなことが随所にある中で、自分を焦らせず、追い詰めず、背負いすぎず、ひとつひとつゆっくり片付けつつ、なんとか夫の入院までにいくつか書類を準備、郵送できた。

悩ましいのは、この間に精神の錯乱を起こしている実母の言動だ。元々「モンスター」という称号にぴったりな人であるのは、私以外の彼女を知る人全員が認めると思うほどのかなりの困ったさん。これだけ私が父関連で動いていて、その都度実家に寄って、何をしているのか報告しているのに、記憶が消えるのか妄想が始まるのか、その両方か(まあ、私の事務処理ペースはかなりのろいだろうけれど)、親戚や介護施設などに何度も電話して「娘が何もしてくれない。勝手に通帳を持っていってる。私は一人ぼっち。」などと泣きながら訴えているという話を聞いて、もうすべて投げ出してしまおうかと思った。

何度もストーカーのように電話しておきながら、気に入らない対応をされると、今度はその施設や人のことを他の人に悪く言ったりするので(昔から彼女がやることの一つ)、各方面にご迷惑をかけっぱなしだ。これはいよいよ何か対策を考えなくてはいけないかもしれない。でも、今でも携帯は使えるし弁は立つし、まだ認知症としては深刻ではないだろう。むしろ精神の病なのだろうと思う。ひどくなってはいるけれど、もともと私が子供の頃からそういう人だったのだ。そのことを私はよくわからないまま育ってしまった。

という具合に、放っておけない状況が何重にも重なって進行しているので
「同時多発介護キャンペーン」などと言って笑おうとするのだが、現実、なかなか笑えない。とはいえ、親はいずれ死ぬものとして、今は夫の手術と術後が一番気にかけたいものなのだけど、そこに12月以降、ちゃんとゆっくり向き合えていないくらい、あまりにも色々起き過ぎた。

もう、こうなったからには、先のことはいいから目の前のことをひとつひとつ、とやっていたら、あっという間に夫の入院の日になってしまった。

でも冒頭書いたように、夫の件のプロセスだけを見てみると、最初に希少がんの疑い(後に良性と診断)と診断されてから3ヶ月もたってしまっている。病院が混んでいるということもあるし、絶妙なタイミングで風邪をひいてしまったため、2週間先延ばしになったからだ。でも、この間に私の父が亡くなったことを思うと、それでもすべてのタイミングを信頼できる。

だけどその間、彼は痛みとして口にはしていなかったけれど、24時間痛みが頭や目の横、鼻の奥にあって、腫瘍が目を圧迫し始めてその痛みに最近は苦しんでいた。
目の横なんて、どんなに怖いだろうと思う。

よく知らない人で、ちょっと癒し関連のことをやっている人たちが(私も昔はその部類だった)、彼の病気の詳細や経緯や考え方を何も知らないのに、「手術はやめた方がいい」などと遠回しに言ってきたりするけど、申し訳ないけど無視させてもらっている。

私だったらどうするかはわからない。私だったらもしかしたら手術以外の方法をもっと模索したり試したりしたかもしれない。いや、それもわからない。

実際に目の横や脳に腫瘍があって痛み続けていて、「腫瘍が骨を破壊し続けているので、放っておいたら目や顔の半分をあきらめなければいけない」と言われながら、年齢も60を過ぎて、体力含め色々な意味でタイムリミットを感じながら、もっとも優秀な技術を持つといわれる医療チームにお世話になることを私も選ぶかもしれないし、少なくとも夫はそれを決めたのだから、それが彼の選択であり彼の最善の選択なのだ。

まあその前に「私だったら」などという設定には無理がある。人生はひとりひとり違うし、ひとりひとりの存在も選択の意味も違うのだ。「私だったら」などありえないのだから。

病院まで家から1時間かかるのもあり、ラッシュ時に行くのを避けるため、入院前日の昨日は二人でホテルに泊まった。二人とも大手外資系、商業主義系、観光客向けのホテルなどが苦手なので、銀座の落ち着いたエグゼキュティブ向けビジネスホテルの快適なお部屋に。

これが思いの外よかった。家にいるだけだったら、うつうつとしていたかもしれない夫が、ほんの短い瞬間だけ夜景の美しさに心を動かされ、食事の美味しさに舌鼓を打ち、二人で静かに語りながら、部屋の壁に設置された大きなモニターに感動しつつ波動系ヒーリング音楽を聴いたりして過ごした。夫も、想像以上に気分転換になったと喜んでいた。

今日は病棟に送っていっただけで病室には入れなくて、入院先ではあれが最後かと思っていたけれど、さっき電話があって明日の夕方、主治医の面談の時に私も同席できるそうだ。雪も降りそうだし、ホテルをとっておいてよかった。

26日の手術自体は、なんと、15〜18時間を要すると言われていて、家族である私は一人で(施設に入ることが許されるのが一人)その間ずっと病院にいることになっている。手術が終わって出てきたところを遠くから見届けるために。

そして手術後は、5日間もの間、ICUにいて、ようやくその後一般病棟に移る時も家族が一瞬だけ立ち会うことになっている。

病室に入る前に。

色々、なんだかなと思うこともありつつも、いつも二人で話してきたのは
最悪のことのように見えていながらそこにすごい奇跡が散りばめられているということ。ちゃんと最悪は避けられていて、それが奇跡ではないかということに気づけていたこと。そうすると今与えられている状況に関わってくれている人達に感謝が湧いてくる。この純粋に湧き上がる「感謝」は、やがて至福を連れてくる。
そんな短い瞬間を味わいながらここまで来た。

じゃあね!明日も会えるとはこの時は知らず。


大変そうに聞こえるかもしれないけれど、私はこの状況をちゃんと大切に乗り越えたいと思っている。すべてに感情が動き、感覚で確認している。それがとても愛しい。今まで生きてきた中で、もっとも深く大切に「生」を見つめていると感じているから。ここに残したいのも、「大変な日々」としてというより、「大切な日々」として。生きた証である、生についての私の感性の記録だから。

今朝、気晴らしを兼ねて夫が引いたカードは
無限大の8の字を描く白龍で「未来は約束されている」だった。

The Journey Continues…

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