愛とは「見えてるよ」と伝えること
結局このところのもやもや病の正体は自分が必要だと信じてやってること(ホームレス支援&シェアハウス運営)が、資本主義的価値観のなかでその価値が可視化されににくく、また現場での自分が使い捨て要員のように感じること。そして、そのことによって、漠然とした将来の不安に侵されたり、なぜかやってることへの自信まで奪われてしまっていたことだと気がついた。要は自分が心身削って取り組んでいることが、尊重されていないと感じて傷ついていたのです。
東京の親友と電話したときに「今のみくるは世間から無理やり違うサングラスをかけさせられて『自分が宝物だと思ってたものがゴミ屑だった』と言っているように聞こえて悔しい。炊き出しも門司港も行ったけど、あなたはちゃんと確かに大切なものを築いていると思ったよ。あなたが大事にしているものちゃん信じてください」と言われてハッとした。
他のヤネウラに遊びに来てくれた友人は私のシェアハウス運営の葛藤をきいて、パッと5千円札を差し出してくれた。最初は受け取れないと断ったけれども「今日も含めてこれまでのお礼です。いいからとりあえず受け取ってみてください」と言われて受け取ることにした。最初は受け取ったものをどうすればいのかわからずに机の上に置いててじっと見ていたけれども、時間が経つに連れて、じわじわと彼女の思いや気持ちが伝わってきた。
ある人は私の話を聞いたあとに「本当はあなたみたいな人が(お金のことを気にせずに)現場で頑張り続けられる環境が整えばいいのだけどね」と続けたあとに、「みくるちゃんはもう十分頑張っているよ」と声をかけてくれて、思わず涙が溢れてしまった。
この数週間、色んな人が壁打ちの相手をしてくれて、色んな角度から今の私がやっていることを認めてくれたことで、底辺まで落ち込んでいた私の自尊心は徐々に回復された。結局、私は自分が心血注いでいることを人から認めてもらいたかったんだと思う。
自分が元気なときは自分がやってることに自信満々だけど、弱ってるときは他者からの愛や賞賛に鈍感に、時によっては卑屈にさえなってしまう。今回の経験を通して、愛とは「あなたのことちゃんと見えてるよ」って、まっすぐ伝えることだと思った。それが言葉でもハグでもお花でもお金でも。たとえ、対価がお金という形で支払われなくも、おいちゃん達からの「ありがとう」や、友人たちからの「ヤネウラ居心地がいいね」って言葉があれば私は生きられる。
とはいえ、愛だけでは飯は食えない。三十路をこえて、そろそろ自分の人生を現実的に組み立て直さなきゃなと思っている。なにかと白黒二項対立で考えがちな私にとある友人は『ORとANDの法則』を教えてくれた。どちらかじゃなくて、どっちもを選び取っていく姿勢。
そんなこともあって、少し前までの自分は「弱いまま生きていきたい」と思っていたけれど、最近は自分が必要だと信じるものを持続可能なかたちで続けるために「強くなりたい」と思いはじめている。
まだ、なにか答えが出たわけじゃない。
でも途中経過の記録も残そうと思って書きました。
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