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分かると分からないを分かつこと

 目下、夏期講習の渦中です。ハイ、海外の塾であっても夏期講習はあるのです。朝8時から授業がはじまります。教師も生徒も寝起きのむくんだ顔で校舎に集います。送り出す親御さんは何時に起きておられるのでしょう? 最も長い授業時間のクラスでは生徒は8時間滞在します。それが4週間続くわけですから、同士のような心持ちになってきます。「さようなら」をした数時間後には「おはよう」を言い、「もう週の真ん中だね」とか「昨日何時に寝た?」とか互いに励まし合いながら。

 学習は筋トレに似ています。無理せずできる水準をずっと続けていても力量は横ばいが続きますが、敢えて負荷をかけることで弱い細胞は破壊され、適度な休息によってより強い細胞となって回復します。これを運動学では「超回復」と言います。超回復によって強くなった筋細胞はしかし簡単に弱くなってしまいます。回復した頃に再び新たな負荷をかけて超回復を繰り返すことで順調に肥大をしていくわけです。

 夏期講習では「知の肥大」を集中的に実践します。5割くらいしか自力では理解できない文章を敢えて選ぶのです。まずはノーヒントで、ワークシートの質問に答えながら果敢に読解を試みます。それが終わったら、「どうだった?」「ぜんぜん分からなかった!」とお決まりのやりとりから、さて授業がスタートするわけですが、いきなり解説なんてしちゃいけません。解説した端から生徒は分かった気になって、脳みそが半分お休みモードに入りますから。生徒の「分からない!」の解像度を生徒自ら上げるために教師が適切に働きかける必要があります。具体的には、論説文であれば話題、要旨や最終的な筆者の主張、物語であれば「出来事」と「感情の変化」がどう接続しているのかを説明してもらいます。難しく聞こえるかもしれませんが、生徒のレベルに合わせてこちらが質問の仕方を変えることで少しずつ言葉を紡ぐようになります。ここは大事なところですから焦っちゃあいけません。私はさらに質問を続けます。「じゃあ、筆者はこの具体例を何のために書いたんだろう?」、「この登場人物はどんな性格だと思った?」というように。生徒は自信を持って説明することができることもあれば「えーっと、えーっと」と言葉に詰まることもあります。そうして自ずと「分かる」と「分からない」の境界線が生徒の中に引かれていくのです。「あ、自分はここが読めていなかったんだ」「ここが分かったつもりになっていたんだ」というように。

 人に説明するというのは高度な技術ですね。文章に書かれていることをそのまま読み上げても他人には理解してもらえませんから、自分がほんとうに理解している言葉で言い換えてあげないといけない。言い換えようとする生徒の脳みそはタービンが唸りをあげてフル回転します。それを私はただじっと待つ、……たまにヒントをパスし、そしてまた待ち、質問し、また答えを待つ。生徒の説明がどんなに的外れでちぐはぐでも直接指摘してはいけません。「なるほど、つまりこういうこと?」とか「そこの部分をもう少し説明できる?」など肯定ベースで問答を続けます。「あなたの授業には間がある」と同僚の教師が言うのは、きっとこのような私の授業の仕方によるものなのでしょう。

 ところで、物事を理解する「分かる」という言葉は、物事を区別する「分ける」と語源を共にしています。なるほど「分かる」ということは、自分がどこまで分かっていてどこが分かっていないのかを「分ける」ことができるということであり、分けるプロセスを経て分かる領域を少しずつ増やしていくことが知の肥大なのでしょう。「分かる」というのは極めて個人的なプロセスなのです。これが基本的な考えとしてあれば、何才だったらこれができていないといけない、というような社会的基準にさほど右往左往しなくて済むようになります。子どもの学習は社会的な圧力によってなされるべきではありません。今目の前にいる子どもの知が努力に応じて肥大していくことが大事なのです。

 えー、結局何が言いたいかといいますと、毎年のことながら夏は授業と準備に追われる上に秋のフルマラソンに向けてのトレーニングも重なって、なんだか笑っちゃうくらい稼働しております。諸関係者の皆様、私の返事が遅くなってもお許しください。この言い訳を込めた文章も30キロラン後の筋肉痛を引きずって書いております。明日には超回復をするでしょうから、そこでまた再び走って筋肉肥大を目指す所存です。

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