『学生街の古本屋』
■ なつかしの古本屋
大学生のころ、いつもかよっていた古本屋があった。そこには、漫画本などは全くおいてない。文学や、歴史、映画、芸術関係の書籍や新潮文庫が充実していた狭い店だった。
ぼくは、定期的にそこに立ち寄っては、司法試験にも役に立つような新しい法律書がないか、チェックしていた。肉体労働を終えて、作業服のままで、いまもらったばかりのバイト代をすべて法律書につぎ込んでしまったこともあった。
もともと、法律書は、高額だ。そんな高い法律書の比較的新しいものが、半額で販売されていたこともあって、ぼくにとっては相当な穴場だった。
■ ソリティアをやっている店主
そのお店の店主は、決して愛想のいい人ではなかった。会計のときは、口を開くこともなく、ノートパソコンでソリティアをしていた。特に雑談をするわけでもなく、もしかしたらぼくのこともたいして認識してないのではないか、と思っていた。
■ ひさびさの学生街
司法試験に受かって、弁護士として活動を始めてから知らばたって、大学の近くまで行く用事があって、ぼくは、かつてなじみだった床屋で髪を切ったあと、その古本屋を訪れた。あいからわず、法律書も充実していた。ぼくは、何冊かの法律書や心理学の本を手にして、レジに向かった。 すると、それまでソリティアをしていた店主が、メガネをかけてこちらの顔をじっと見つめる。 「あんた、昔、よううちで本を買ってくれていたよなぁ」 それまで特に印象に残るような会話もしたことがなかったので、店主から認識されていたことに、驚いた。
「実は、司法試験を受けていて、いまは合格して、弁護士として活動しています」というと、店主は、「そうか、そうか、難しい本をいっぱい買ってくれてたもんな」と感慨深そうにうなづいてくれた。
「いや、うれしいな。うれしいな」と、普段、無表情でソリティアをやっているときには想像できないような笑顔を見せてくれた。
「じゃあ、これはお祝いなんで、お代はいいよ」
と本をそのまま、袋に入れて、渡してくれた。
全部合わせると1万円くらいになる書籍だった。
サービスしてくれたことはもちろんうれしかったが、それ以上にぼくのことを覚えてくれていたこと、ぼくの試験合格を喜んでくれたことがうれしかった。
その後、ふたたび学生がを訪れたときには、もうお店は閉まっていた。あとでネットで、確認したところ、田舎に引っ込んで、通販だけで細々と商売を続けているようだった。閉店前に、あのなじみの古本屋に行けて、本当によかった、といまでも思い出す。