権利と義務の隙間にある自由
■ 義務と権利のすきま
権利と義務との間には、とてつもなく広い隙間がある。それは白か、黒かではない世界である。一種のグレーゾーンと言ってもいいかもしれない。 例えば、誕生日を祝ってもらう権利、などというものは通常、存在しない。祝う側は、法的な義務があるから誰かを祝うわけではない。また、祝われるほうも、義務がないにもかかわらず祝ってもらうからこそうれしいのである。
世の中は、実はこうした権利でも義務でもないグレーゾーンが大部分をしめている。権利や義務が問題となるのは、関係が破壊され、問題が顕在化したあとにすぎない。だから、例えば夫婦が、権利や義務を口にしだしたときには、もうその関係は終焉は近い。「これはちゃんとやってよね」「私にはこうしてもらう権利がある!」などと言った時点で、既に良好な人間関係は破壊されているのである。
だからこそ幸せにいきるためには、この権利と義務の間をできるかぎりひろげ、グレーゾーンを大切にすることが必要なのだ、とぼくは思っている。
■ 自由を獲得するために
当然の権利が実現しても人は喜ばない。それが当たり前のことだから。でも、権利でもないのにしてもらったことには、自然と感謝の気持ちが生まれ、「ありがとう」という言葉が自然とでてくるのである。
義務を果たしても、ひとは褒められない。それが当たり前のことだから。でも、義務でもないことをやったとき、多くのひとは、その行為を賞賛してくれるのである。
義務のあることをやることは、文字通り、義務である。したがって、そこに自由はない。
それに対して、義務をこえた行為をやるかどうかは、自分の意思に委ねられている。だから、義務を越えた行為こそが本当の自由なのである。自由になるためには、義務を越えた領域に一歩踏み出す必要があるのである。
例えば、非行少年に本を差し入れることが弁護士としての義務ではない。だから、本を差し入れるかどうか、どのような本を差し入れるかは、ぼくの自由に委ねられるのである。自由は、楽しい。
ぼくらが普段の生活で大事にしないといけないこと。それは、義務でもないのに他者がしてくれることに対し、敏感になること。それに対し、きちんとありがとうということ。
義務を越えて自分にできることにきづくこと。ちょっとしたことでも、それを実行に移すことだと思うのだ。
それが、自由と幸せの入り口なのではないか、と思うのだ。
おわり