コラボする琉球音楽

洋画の音楽のサントラって「炎のランナー」のテーマもそうだが結構いいのあるよなって思った。ん、「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」は坂本龍一だった。

坂本龍一というと知られざる名曲「Asian Flowers 」があった。最初、私はタイの歌声かと思っていたが、「新宮古節」という琉球民謡とのコラボだった。福岡市が主催する「アジアマンス」のテーマソングだった。平成初期の9月のアジアマンス期間はよく流れていた。

沖縄県立芸術大学のインドネシアの民族楽器たるガムランサークルが琉球舞踊とのコラボレーションを取り入れたコンサートをしていた映像は非常に興味深かった。琉球王国は東南アジア諸国と交易していたので何かしら親和的なものを感じさせる。

かつて「琉球人」はポルトガル人に「レキオ」と称された。現在、沖縄県知事応接室には「万国津梁の鐘」の銘文が書かれた屏風が置かれてある。首里城正殿に掲げられたその鐘の銘文は「琉球王国は海に囲まれた地の利を生かして中継貿易を国家プロジェクトとして国を繁栄させる」気概を現したものである。そして琉球国王がいわゆるCEOとなっていた歴史が所以である。

沖縄県立博物館にある万国津梁の鐘
沖縄戦で焼け残ったため黒くなっている
まさにレキオの気概を後世に残さんがため

当時の中国の明は入朝する外国を制限する「海禁政策」をとっていたが、琉球に関しては例外だった。明からもたらされた品物をアジア諸国に、アジア諸国からの商品を明に、という形で転売することによって莫大な富を琉球王国にもたらすことになる。しかし、明が海禁政策を緩和したのと、大航海時代によるポルトガルの進出により大きく衰退し、1570年を最後に琉球王国は東南アジアから撤退することになる。

とはいえ、その「万国津梁」の気概は琉球王国に独特の文化を残した。泡盛はタイの「ラオロン」なる酒が琉球にもたらされた、というのは
東恩納寛惇の説である。タイ料理の「トートマンプラー」が、琉球料理の「チキアギ」となり、「薩摩揚げ」(大久保利通の好物)となった。中国の「東坡肉(宋代の詩人蘇東坡の発明とされる)」は、琉球料理の「ラフテー(私のレシピは後日アップしたい)」として伝わり、薩摩料理の「とんこつ」(西郷隆盛の大好物。特に脂身を好んだせいか肥満体だった)となった。インドで生まれた織物の技術が、インドネシアやカンボジアといった東南アジア諸国を経て「琉球絣」となり、本土にも絣の技術が伝わった。(久留米絣は江戸時代に井上伝という人が偶然発見したものではあるが)東南アジアの衣装は素晴らしいと思う。今でもエスニック雑貨やシンガポール航空CAの制服はオシャレで人気がある。

1609年、琉球は薩摩藩の侵略を受ける。これを「薩摩の琉球入り」という。薩摩兵3000人に対して迎え撃つ琉球は4000人。戦国大名から外様大名として生き残った薩摩藩は強かった。現代風にいうならば米海兵隊3000人と沖縄県警機動隊4000人を想像して欲しい。琉球王国は薩摩藩に大敗する。

ここから琉球は新たな分岐点に入る。以前の琉球を「古琉球」といい、以降を「近世琉球」という。これにより与論島以北(硫黄島を除く)は薩摩藩に割譲され、直轄領となった。今日においても奄美と沖縄は似ているというのは、奄美においては「古琉球」が残っているからである。ちなみに奄美群島は終戦後1953年まで米国民政府の統治下にあった。琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、中国からの冊封体制に入るという日中両属となった。徳川将軍の就任には「慶賀使」が、琉球国王就任には「謝恩使」が江戸まで中国風の衣装を着て派遣された。中国皇帝の使者「冊封使」が琉球国王就任を認めたことで晴れて正式に琉球国王となったのである。

「幕藩体制下においての異国」である琉球は中国や日本の文化を積極的に取り入れ、現在の伝統文化の多くを形成することとなる。琉球版「満漢全席」ともいうべき「御冠船料理」が冊封使に供された。ちんすこうきっぱんといった中国の影響を受けた琉球王朝菓子が生まれた。王朝の料理人は日本料理を学ぶべく日本に留学した。玉城朝薫は日本の能の要素を取り入れ、琉球ミュージカル「組踊」を完成させた。代表作は「執心鐘入」である。冊封使の徐葆光は鑑賞して『中山伝信録』に記録を残している。彼の子孫こそがDA PUMPのISSAである。 

閑話休題。随分と話が逸れてしまった。どうやら琉球音楽とは人の心を何とも引き寄せるては離さない魅力的があるようだ。最近ではポップスで時々琉球音階が用いられる。

2024年にHYがリリースした「帰る場所」は琉球国祭り太鼓とコラボしている。

2005年にMAXがデビュー10周年を期して琉球音階を取り入れた「ニライカナイ」をリリースさせオリオンビールのCMソングとなった。

2000年の九州沖縄サミットでの安室奈美恵か各国首脳の前で披露した「never end」も琉球音階が使用された。

1996年には桑田佳祐の「平和の琉歌」も琉球音階が利用されて知名定男が歌詞を加えてネーネーズがカバーしている。

THE BOOMが「島唄」を1992年に沖縄でリリースさせ、翌1993年には全国的に一大ムーブメントを起した。そもそと「島唄」とは「琉球弧」と呼ばれる奄美群島、琉球諸島といった琉球文化圏で歌われる民謡の総称のことである。当時それを「島唄」という単語を使うのはいかがなものかという論争が起こった。とはいえ琉球音階を使った音楽を世に知らしめた功績は大きいと思う。「島唄」全国的ヒットの翌1994年にガムランを使った「berangkat」をリリースさせ、琉球音階を使った「いいあんべえ」をバリ島のケチャとコラボレーションさせている。それこそ「古琉球」時代とのチャンプルーだ。一説によると「チャンプルー」なる単語もインドネシア語が語源らしい。

とはいえ沖縄の音楽を知ろうとすると、やはり祝いの席では欠かせない「かきやで風」やカチャーシーで大盛り上がりの「唐船ドーイ」はといった琉球古典や琉球民謡を知るのは必須だと思う。ゆいレールで流れるメロディはどれも沖縄県民に長く親しまれこれからも愛される曲なんだと思う。


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