内気だった僕、
過剰評価社会
学生ってすぐに噂や悪口が回る世間であると考える。実際に大学では広くて、誰が誰か分からないためそこまで評価されることもないだろ。現代の小、中、高生は特に下手に動くことが出来ないと思う。それに加え思春期という逃げようにも逃げれない成長が芽生えより難し。そして、今、社会問題になっている詰め込み授業もあり、子どもの頃からの教育が画一されてしまっている日本である。こんなにも辛いのに対して評価という項目を自分で抱えている。抱えざるおえないのが若者であると思う。ここではそんな人が少しでも軽くなるような投稿をしたいと思う。
評価の目になれるのは得策
評価という物は周りに縛られてて嫌だと考えてしまうことや、自分をさらけ出せない理由としてだいぶ嫌だと感じる人がいるかもしれない。そして、普通であれよや世間一般的にが意味分からない人もいる。自分も春期時代に俺に構わないでくれと思ったことがあり、世間一般の定義が分からない。親とはずっと対立、友達においていかれていく、誰も見てくれない、結局「評価って優遇されないとできないんでしょ」と感じた事がある。しかし大学生になた今でもこの行動が悪いとは思わない。だってこれから気づいたことがあるからだ。評価という物は人によって味方が違う。胡散臭い話をすれば何も知らな人が勝手に自分達を評価してくるのは当たり前になるのである。XやYouTubeでもそうではないか、今夢中になってるアイドルの全てを知ってる人なんてほんと、ひと握りでしかない。つまり全員他人なんだ。そのひと握りの人から抜けて他人にに評価されるのが当たり前なのである。そんな奴が、、、と思っていてもそいつは自分の出し方がうまかったらどうだろう?というのに展開する
自分のさらけ出し方
私自身人に対して自分をさらけ出している人はとても少ないし、打ち解けるのがとても難しいと考える人間である。しかし、自分がしてきたこと、自分が失敗した事はポンポン出てくる。ここでどんな差が生まれているのかと言うと、楽しかった記憶や、苦しかった記憶を人に話すようにしたのだ。コミュニケーションをとる事で人の輪が広がるのだ。しかし、私内気だからとかあるかもしれない。しかしどこで発散するんだ?どこで話すの?頷きや首振りでは余計に悪い印象を持たれるだけだ。思いっきってやってしまえばいいのだ。
沢山話周りに知ってもらうことが1番な近道やったりもするのよ?
結局は全員他人
「思い切ってやってしまえ‼️」僕はそう思った時によくあるのは夢でうなされるのだ。「お前なんか失敗する笑」「やめろって言ったやん」「友達やめよ」嘲笑ってくるやつとかの情景が浮かんでくる。でもそれってまだやられてないやん?ってのに気づくわけだ。怖い、不安、辞めたい、でも、それをやったらこんなええ事がある。やりゃーええやん(👍 ˙-˙ )👍どうせ他人事。全てを知ってくれてるのはほんのひと握りの人だけ。それ以外は全部外役なんよ。モブ。そこに邪魔されるのは主人公あるあるやから。人生はひとつの物語楽しいことも苦しいことも代わる代わるやってくる。苦しい時に終わるんか?楽しい物語に向けて走るんやろ⁉️大学生が言うのもアレやけど人生結構イージーモードよ?
まとめ
今回話まとまってなくてごめんなさいm(._.)m
でも、現代の若者って大人の皆さんが思ってる以上に繊細で、やれることも多くなってますけど、頼んじゃうと不安になったりすることがあるのです。増やしてもらいたいのは成功体験です。沢山褒めて。沢山称えることで伸びます。
以上です「自己論でした」