列車的構造と自動車的人間 作家ミッシェル・ウエルベック

 現代のフランス文学を代表する作家の一人としてミッシェル・ウエルベックは日本でも広く論じられている。ここでは彼の小説に対してテキスト分析の観点からアプローチし、彼の小説における重要なテーマの一つである「自由」の問題を考えるヒントとなるものを見出したいと思う。そこで注目したいのがウエルベックの作品に登場する「乗り物」たちである。その「乗り物」の中でも特に重要な役割を果たしているのは車と列車である。

 ウエルベックの作品において、車と列車の使い分けはかなり意図的に区別されている。この問題で最も顕著なのは『闘争領域の拡大』であろう。この小説の始まりで語り手が車を無くしていることは、注目すべきだ。この車は物語の中でのちに見つかるということもなく、さらには言及されることすらない。ならば、なぜ語り手は車を無くす必要があったのだろうか。これには車と列車の根本的な違いが関係している。つまり、車に対して、列車は何処で降りるか、何に乗るのかを選択するぐらいの自由しか残されていないということである。これは「結局のところ現代の社会が人間に提供する自由とは、この細かい差異の選択のみなのである」【ミッシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』(訳・中村佳子)(2018)河出書房新社 28ページより引⽤】という文章と重なっていると予想される。

『闘争領域の拡大』において語り手は車を無くしたがためにほとんどの移動を列車で⾏っているが、切符を買った始発の列車に乗らないというような不自然な⾏動を取ったりする。また、語り手とティスランが若い男⼥を襲おうとした時や、ティスランが事故で死んだ時、車に乗っているということは重要である。『闘争領域の拡大』の語り手はまるで決められたレールのような社会構造から降りるようにして、会社をやめて最後には森に消える。それはさながら列車を降りる、または列車に乗らないということではないだろうか。さらに会社を辞めた後、彼が乗っているのは自転車であることも注目すべきことであろう。『セロトニン』においても、語り手は仕事も恋人も捨てて蒸発者となることで社会構造から降りて、車で各地を⾏き来する。このように、ウエルベックの作品においては社会構造と列車というものが結びついて描かれていると考えられる。そして社会構造とされる列車に対して車は個人の自由により一層近いものとして、さらには社会に対しての反抗のように描かれている。それはティスランが事故で死んだ時も「少なくとも彼は、諦めたり、降参したりしなかった。延々と失敗を重ねても、最後まで愛を探し求めた。僕は知っている。ひとけの無い高速道路で、二〇五GTIのシャーシに潰され、黒のスーツと金色のネクタイ姿でちまみれになりながら、彼の心中にはまだ闘争も、欲望も、闘争心も残っていた。」【前掲書『闘争領域の拡大』155ページより引⽤】ように表現されていることからも見受けられる。

また、フランスのロックスターであるジャン=ルイ・オベールがウエルベックの詩を歌うアルバムの曲うちの一つである「Isolement」【YouTubeで以下のURLで聞くことが可能であるが、MVはCD版よりも列車の音が短く別の音のように聞これる。(https://www.youtube.com/watch?v=oRhSK-P-7RA&list=RDoRhSK-P-7RA&start_radio=1 1)】においてイントロ部分で列車が通る音が流れることからしても、ウエルベックにとって列車が重要なオブジェクトとして扱われていることがわかる。

 このような指摘は、直接には何ら意味のないもののように思えるかもしれないが、今後ウエルベックの作品を分析するに当たって一つのヒントとして考慮する価値が十分にあると思います。

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