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木崎喜代子の場合 Ⅴ【心療内科の魅力を伝えるために、心療内科の医師・臨床心理士・関係者が、心療内科を舞台に小説を書いてみた。⑤】

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#5回目
「じゃ、こちらに置きますね」
「どうもありがとう」
 2Lペットボトルが詰まった段ボールを軽々と上がり框に運び入れ、宅配の若者は慌ただしく去っていった。
 あれから喜代子の生活は変わった。毎日スーパーに行く必要がなくなり、そのことに多少戸惑いはしたものの、思い切って今までとは別の方角へ出かけるようにした。
 季節は折しも春。散歩に選んだのは桜並木で、花はまだ三分咲きといったところだった。
 どれくらいぶりだろう、咲いている桜をゆっくり眺めたのは。
 これまで、喜代子の日々は単調だった。昼過ぎに出掛け、スーパーの近くにある図書館で時間を潰す。ずっと自分が家にいたのでは、正太郎も窮屈だろうと思って始めた習慣だ。
 でもそれは、本当に息子のためになっているのだろうか。
 それを考え始めると、脳の片隅が濁ったような感覚になる。その濁りを晴らそうと考え続けると、決まって腰が痛んでくるのだ。結局、読んでいた本の筋も追えないまま、席を立つ。夕飯の食材を買い、痛みをおして帰路につく。夕食を作るのが億劫な日もあるが、これは自分の役目だと必ず作った。
だって、もし自分が作らなかったせいで正太郎が食べることをやめてしまったら。
 それを考えるのが怖くて、喜代子は夕食を作り上げる。そして、出来るだけ体裁よく盛りつけた料理に、丁寧にラップをかけ、温め方を書いたメモを添えて冷蔵庫にしまい込む。翌朝、それは食べられていることもいないこともあった。それでも良かった。ちゃんと自分の役目を果たしたのだから。
 まだ頼りない花を見上げると、ふっと記憶の底から声がした。
「どうして、『役に立たない』と感じるんですか?」
 三野原の声だ。先生の声は優しい。けれど、時として喜代子の触れられたくない場所を柔らかく握りしめてくるように感じる。その感覚はどちらかというと恐怖に近かった。
「これだけ頑張っているのに」
 彼のあの言葉を、今でも思い出す。
 頑張っている? 本当に自分は頑張っているのだろうか?
 そんなはずがない、と内なる声が即座に強く否定した。
 だって、私がちゃんとしないから、ちゃんと出来ていないから。
 正太郎は、今も部屋から出てこないじゃないか。
 夫は、本人の問題だから放っておけと言う。放っておけ? よく言う。夫はいつでも放置だ。私のことも、正太郎のことも。自分のことにしか興味がないことは、とっくの昔に気づいている。そうじゃなかったら、あんなタイミングで。
「痛っ……!!」
 急激に腰が痛みだした。蹲りそうなほどの痛みを、その場に立ち竦むことで何とか耐える。もはや喜代子の目は、桜を映していなかった。
 
 
「そんなに急に痛みましたか」
 翌日が診察で良かった。病院に辿りつけるかが心配だったが、何とか受診することが出来た。
「バスに乗れそうにもなくて……今日はタクシーで来ました」
 左腰を庇うように撫でながら、喜代子は俯いた。久々に靴を履くのもつらいくらいに痛んだ。
「何か、痛みがひどくなる理由はありましたか?」
「いえ、何も……歩いている途中で、急に痛くなりました」
「鎮痛剤は飲まれましたか?」
「家に戻って飲みましたが、少し良くなったくらいで今朝までずっと痛いです」
「数字で表すと?」
「……7くらいですね」
「前回は、4から5くらいっておっしゃっていましたね」
 カルテに打ち込む三野原の声が、少し曇った。喜代子はその声に挫けそうになったが、意を決して彼に尋ねた。
「先生、私は治るんでしょうか?」
「…………それが、不安ですか?」
 治るとも治らないとも答えず、三野原は一拍置いてそう返してきた。
「昨日の夜は、怖くて眠れませんでした。結局、私の腰は治らないんじゃないかと思って」
「……不思議なことを聞くように思われるかもしれませんが、木崎さんの考える『治る』というのは、どういうイメージですか?」
「イメージ?」
「どうなれば、『治った』と思えそうですか?」
「痛みがなくなることです」
「数字で言えば、0になる、ということ?」
「そうです」
 何故そんな当たり前のことを聞くのかと、三野原を見つめ返す。相変わらず、長い前髪の奥、彼の表情は読み取りづらい。少し彼は笑ったように思えた。
「そうなるまで、手伝いますよ」
「治りますか?」
 彼の口から、「治る」と言って欲しかった。けれど、三野原はそうは答えてくれなかった。
「木崎さん、10年その痛みを0にしようと頑張ってこられたんですね」
 その言葉に、何故か壮絶に苛ついた。
「私は頑張ってなんかいません。だから今も痛いんじゃないですか」
 怒りのあまり、硬い声が出る。
「今までいろんな先生がいろんなことを言いました。『安静にしてください』『薬を飲んでみましょう』『運動しましょうか』『ストレッチしましょうか』……治りたかったから、私も言われる通りにしました。でも、私の腰は痛いばっかりで、ちっともよくならないんです。それで検査を受けたとしても、『何処も悪くない』『手術するほどではないです』って言われて……じゃあどうしたら治るんですか? 私の頑張りが足りないんですか? もう治らないなら、治らないって言って欲しいんです」
「……………………」
「もう疲れました……」
 そう呟いた途端、まったく予期しなかった涙が溢れてきた。喜代子の奥底から噴き上がってきた怒りは苦しいほどの悲しみになり、ぼたぼたと膝を濡らした。ハンカチを探そうとした喜代子の手元に、三野原はティッシュを箱ごと差し出してきた。
「すみません、ごめんなさい、三野原先生が悪いんじゃないのに、ごめんなさい……」
 悪いのは私なのに。私がちゃんと出来ないから、こうなったのに。
 恥ずかしいのになかなか泣き止めず、ティッシュで抑え込むようにしてようやく涙をおさめた。喜代子が泣き止むまで、三野原は一言も発さずに待っていてくれた。
「……僕は、木崎さんの痛みを減らすために、出来ることを一緒に考えたいと思っています」
「……」
「『治らない』とは、思っていません。今日の話はとても大事なので、次回、しっかり時間をとって話しましょう」
 次回の診察は、1週間後の午後になった。

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