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第31章 「自分の頭で考えるということ」

とんでもなく久しぶりですね。

一応ちゃんと生きてます。

最近はちょっと自分の研究テーマの分野を大きく変えてしまって、その新しい勉強とかでいっぱいいっぱいだったところがあります。言い訳です。

さて、今回はちょっと変なことを書くかもしれません。

「自分の頭で考えようとしすぎるの、危いよ」という話です。

結構、逆張りみたいな話なのでイライラさせるかもしれませんが、むしろ反論をお待ちしています。

学問って何のためにあるのか

いきなりなんですが、学問って何のためにあるのだと思いますか?

学問はどうして、何の目的で生まれたのか。

これは私なりの答えなのですが

学問は「未来の出来事を予想できるようになりたい」という目的で生まれたものです。

ようするに、このあとどうなるのか知りたいという希望を叶えるために発展してきました。

で、重要なのは「結果」、つまり「事実」です。

理由とかは本当はどうでもいいんです。

言ってしまえば、学問における理屈なんてものは、事実に対して後付けで人間が作り出したものです。

なんだかよくわからんけどこうなる、という事実さえわかれば他はぶっちゃけどうでもいい。

なので、学者が最も大切にすべきことは「理屈」ではなく「事実」です。

「理論上はこうなるはず」なんてのは、結果が伴ってなんぼです。

未来が予想できると人は安心する

なんで未来を予想できるのが大事かというと、その方が安心するからです。

人は「予想できない」ものに恐怖を抱きます。

人が何かに不安や恐怖を抱くのは、次にどうなるかが予想できないからです。

そして、いつもの日常に対して不安や恐怖をいだくことはほぼありません。

なぜなら、いつもの日常の物事であれば、次にどうなるかがだいたい予想できるからです。

じゃあなぜ、予想できるのか。

いちいち頭で論理立てて考えて、予想しているわけではありません。

過去の経験から知っているからです。

でも、もちろん予想が外れることもあります。

それでも困りません。

なぜなら、多少細かい予想が外れることも、過去の経験から知っているからです。

と、言いつつも・・・

過去の個人的な経験だけでは予想が困難なことはたくさんあります。

そのために人はたくさん情報を集めて、知識を蓄えます。

人は知識で予想する

さて、20代の健康な日本の若者が、毎日「自分は明日死ぬかもしれない」と予想して暮らすでしょうか?

あまりないケースでしょう。

明日絶対に生きている保証なんて、本当はないんですが、なぜ「死ぬかもしれない」と思わないのか。

だって、日本に住んでる健康な若者が、いきなり翌日に死ぬなんてことはめったにありませんよね。

多くの人はそれを知っているので、「20代の自分が明日いきなり死ぬなんてことは起こらない」と思って暮らしています。

20歳の若者と、90歳の老人、明日生きている可能性が低いのはどっちでしょう?

と聞かれれば、素直に考えれば90歳の老人だろうと思いますよね。

では、少し質問を変えて、オートバイが趣味の20歳の若者と、運動が趣味で現役で農業をしている90歳の老人、という2択ならどうでしょう?

迷うかもしれません。

なぜなら、オートバイが趣味の20歳の若者というと、交通事故が連想されるからです。

さらに質問を変えて、手術不能な末期の悪性腫瘍で入院中の20歳の若者と、運動が趣味で現役で農業をしている90歳の老人、という2択ならどうでしょう?

これはそうとう迷いますよね。

これは「手術不能な末期の悪性腫瘍」は死亡する可能性が高いことを知識として知っているからです。

一方で90歳の老人が突然死ぬ確率がそれなりに高いことも知っているので迷います。

で、結局確率の話になると、統計学が答えを出してくれますが、それはあくまでも「確率」の話であり、実は個別の案件が「本当にどうなるか」までは教えてくれません。

あくまでもこっちの方が確率が高いという予想です。

「自分の頭で考える」に拘り過ぎることの危うさ

「自分の頭で考える」ことはとても大切だと教わりますよね。

でも「それってちょっと危ないよ」と私は思います。

人はものごとを考えるときには、自分の知識をベースに論理を展開することになるんですが、個人の知識には限界があります。

知識が欠けている状態で考えた理屈というのは、未来の予測精度はおそらくかなり低いでしょう。

物理や化学などの自然科学に関しては、人類の歴史の中で膨大な検証実験が行われ、体系的な理論が作り上げられてきました。

この体系的な理論というのは、「再現可能性が高い」事実の積み重ねによって成り立っています。

なので、この体系的な理論に沿った条件であれば、その未来の予測精度はめちゃくちゃ高いです。

単純なものであればほぼ100%の精度で再現できるでしょう。

しかし、条件が複雑な場合、過去に誰も試したことがないような条件の場合、その予測精度は必然的に落ちます。

ものによっては全く大外れということも当然起こりえます。

そういう予想(理屈)と合わない意外な結果(事実)に誠実に向き合うことで、これまで知られていなかった新しい事実が見つかったりします。

そうやって、学問は発展してきました。

自分の頭で考えることに囚われすぎて、まだわからないことを勝手に想像し、自分の持っている知識だけで補完して、そこで理屈が通ったらそれでよしとするのは、非常に危ない。

まず大切なのは「事実」、そしてその「再現性」、最後に「(精度よく)予測できる」までいけば万々歳です。

理屈や理論なんてのものは後付けでいいんです。

まずは「なんだかわからないけどそうなる」を誠実に受け入れること。

それが最初の第一歩です。

理屈を後回しにして受け入れること

勉強するときに「なぜそうなるのか」という原理を理解することはとても大切です。

理解することで、より色んなことへの応用が可能になってきます。

学問というのはそのためにあります。

最初に言いましたよね。

学問の目的は「予想できるようになること」だと。

「こうすればこうなる」を予想できるようになれば人生はより豊かになります。

先人たちの偉大な功績の積み重ねによって、人類は多くのことが予測可能になりました。

だから、最初から理屈をちゃんと理解できるように教えた方がいいのか?

私はそうは思いません。

理解には段階があります。

例えばテレビのリモコン。

リモコンのボタンの裏にはこういう仕掛けがあって、ここが接触することでここに電流がながれ、ここの集積回路でこういう信号に・・・とか、いちいち理解して使ってますか?

最初は、リモコンの「8」を押せば、何か知らんけどテレビが8チャンネルに変わるってことがわかっていれば十分ですよね。

知識として「何か知らんけどこうなる」ということについて、あとから「こういう原理が働いている」と知って、「なるほど!これとこれは同じ原理なんや!」と興奮できることが、勉強の醍醐味だと思います。

今、私が必死で勉強している免疫学なんて、マジでわけわかんないですからね。

でも、少しずつ予想がつくようになってきました。本当に極々少しですが…。

まずは真っ新な気持ちで「何か知らんけどこうなる」をたくさん仕入れておくことは、けして悪いことではないと思いますよ。

終わりに

(読んだ方から「何が言いたいのかわからん」と指摘を受けたので追記2020/06/26)

こんなとりとめもない話に付き合ってくれてありがとうございます。

なんでこんなとりとめもない話を書いたか、なんですが

東大工学部を卒業して博士まで取った人とか、超一流の進学校出身とか、「考えること」に秀でた人が、なんかトンデモ方向に暴走してる例をしばしば見るじゃないですか。

ぱっと頭に浮かぶ人物がいると思います。

なんでなんかなーと思うと、たぶん「自分の頭で考える」ことに固執した結果なんちゃうかと。

東大とか京大の入試問題って、知識の量を問うよりも、問題文中に与えられた情報の中から論理的に考えて正しい答えを導く「考える力」を問う問題が多いんですよ。

だから、調べるよりもまず考える方を大事にする人が多い。

自分の中にまず答え(仮説)を作って、その仮説に合う情報を取りに行く思考パターン。

これは私もよくやってしまうんですが…。

「納得のいく理屈」というのは、結構危険なんです。

人は納得がいくものを疑うのをサボる生き物なので。

「納得のいく理屈」で「予想できる」ように錯覚して、安心してしまう。

そうやって偏見は強化されていく。

頭のいいはずの人がコロッと詐欺に騙されたりするのも同じ理屈です。

まずは自分の考えは抜きにして、事実(できれば一次ソース)がどうなのかを知り、それを受け入れるところから始めるのが大事やなと、自戒を込めて。

以上です。

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