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「社会の歯車になる」ことの可能性
「社会の歯車になる」とは、どのような意味を持つのだろうか。
いつ、誰が、どのような文脈で発した台詞かが分からないため、本来の意味も分からない。
もしかしたらチャプリンの『モダン・タイムス』が出所なのかしらとも思う。本作はチャプリン扮する職工が機械文明に取り込まれていく様をユーモアを交えて語られる悲哀の物語だが、そこでは人間性を失っていくかのような描写が存在する。
今もなお、世の中での使われ方を知る限り、「社会の歯車になる」とはかなりの確率でネガティブな意味を持たされているように思える。
例えば「社会の歯車なんかになりたくない」という使われ方を見るし、聞くことがある。(ある意味使われすぎて最近は触れる機会が減ったかもしれないが)この表現はおそらく「社会全体が見えない、全体の一部になんてなりたくない」や、「自分は特別な存在だから周りに同化(もしくは埋没)するような役割は担いたくない」といったニュアンスを含んでいるように感じる。
実際、Googleで「社会の歯車になる」「意味」という単語を検索すると、一番上にはWeblio類語辞典が登場し、以下の意味を掲載している。意義素や類義語を見ると、「過剰に働くこと」「家畜と化す」等、良い意味では使われていないことが見て取れる。
【意義素】会社のために過剰に働くこと【類義語】会社の歯車になる ・ 社会の歯車になる ・ 社畜になる ・ 社畜と化す ・ 仕事人間になる
けれども、そもそも「歯車」は広辞苑によれば以下の意味を持っている。
車の周囲に歯を切り、そのかみ合わせによって一方の軸から他方の軸に動力を伝える装置。
もし社会の一人ひとりが自らの能力を磨き、歯を作りあげた上で、それらを他の人の能力とかみ合わせると、一人では決して動かすことの出来ない大きな仕掛けという名の社会を動かすことが出来るのではないだろうか。
これほど分業制が敷かれた社会において原材料の調達から加工、販売までの物作りを一人で進めることは困難と言える。また、多様な考え方が広まる現代において、社会の価値観や政治、環境問題などに一人で立ち向かうことも苦労が多いことだろう。
そのような時、一人でなく他の人びとと協力し、もしかしたら自分では想像もしなかったような社会を作れるとしたら、「社会の歯車になる」こともとても幸せで意義があることのように思える。