ゲスト:小野晃蔵さん(前編)

OBCラジオ:『SIBERIAN NEWSPAPERのしゃべり庵』
2022年1月12日放送分より

『しゃべり庵』では、一般的に見過ごしてしまいそうなことが、気になって見過ごせなかったという、なにかに憑りつかれた人たちをゲストに迎えて、そこに潜む魅力などを最大限に語ってもらいます。

先駆者に教えてもらうことで、我々の知識の空白地だった部分へパズルのピースがはめ込まれ、最終的にそれらが一本の線となり、ここ(現在地)ではないどこかへ連れて行ってもらえるのでは?というものです。

番組の概要

阿守:堺市の七道(南海本線)にある『SPINNING MILL:スピニングミル』のオーナーの小野晃蔵さんにお越しいただきました。

藤田:小野さんのことは絶対にゲストにお呼びしなくてはと考えてました。ただ、お呼びするのも僕が番組に慣れてからにしようと思ってました。不慣れなときにお呼びしても小野さんを際立たせられないなって。

阿守:自分の技量がないぞいうことでね。

藤田:僕自身、他人が何かをやっていたとしても羨ましく思わない性格なんです。「僕は僕やし」って感じで。ただ、小野さんだけはめっちゃくちゃ羨ましいと思った。自分がこういうことできたらいいな、将来こうなってればいいなと、ぼんやりとでも思ってることって誰でもあるやんか。小野さんに会って話しをすると、それを全部やってるので悔しいって気持ちもある。

阿守:小野さん自身は藤田から羨ましがられてるという実感ありますか。

小野:いや、全くないですね。そうやって言われると光栄ですけど、僕は僕以外の人に「どうじゃ、オレ頑張ってるやろ」みたいな気持ちは全くないのね。自分が「これしたらおもろいんちゃうかな」とか「町の人が喜ぶんちゃうかな」と思うことをやってるだけ。

小野晃蔵さんのキャリア最初は以外にも、大阪市交通局。

小野:19歳のときに大阪市交通局へ就職しました。当時は実働時間が短くてスゴく緩かったので「こんなラクでええんかな」といつも感じていました。

僕は工業高校出身だったのでそのときの同級生は必死でモノづくりをしてるわけですよ。一方、僕は電車の整備(車の車検のようなもの)を担当してて、ルーティンワークで大した残業もなかったんです。

そんな様子を周囲の人は「公務員ってラクでいいな」とか言ってくれるんですけど、僕の場合は「これが果たして男が一生かけてやる仕事なんかな?」と疑問を持っていました。

自分が一生かけてやりたいこと。
若き日の小野さんは、自問自答する中で一冊の本と出会います。

小野:ちょうどその頃、改めて『成りあがり(矢沢永吉激論集)』を読み出したんですよ。昔にも読んだことあったんだけど、印象が違った。最初に読んだとき永ちゃんは極貧やったから、あんなビッグになったんやと考えてたんやけど、2回目に読んだら違うとわかったんです。「永ちゃんはビッグになることちゃんと決めてる」って。

『矢沢永吉激論集  成りあがり』
1978年発売

『決める』ということがどんだけ大事かってことに気が付いて、自分も決めていこうという流れで「仕事やめよ」となり大阪市交通局を3年で退職しました。周囲からはそんなええとこ入って辞めるってアホかと言われました。親戚の叔父さんと泣きながらバトったりいろいろありました。

大阪市交通局を辞めて、以後3年間、小野さんは仕事を転々としました。


小野:求人情報誌をペラペラめくって気になるとこに全部に履歴書送って、面接を受けて、実際に行って「あ、違うな」と思ったら最短で午前中でやめたり。

阿守:それを「飛ぶ」って言うんですよ。

小野:笑。仕事をやるからには使える人になりたいし、会社に貢献もしたいけども、「なんかオレにとっては違うな」と感じた瞬間にそれができなくなり、会社に対して申し訳ないなとなって「はよ、飛んだ方がいいだろう」っていうのが理由です。40~50社くらい経験したんちゃうかな。

阿守:ちなみに、最短で飛んだ仕事内容って覚えてますか?

小野:電話営業ですね。テレアポ。でも、そこでも自分なりのやり方には工夫しましたよ。電話ってラジオと同じで声のみなので、自分の気持ちが暗いときには暗い声になってしまうじゃないですか。

僕は仕事の机の上に鏡を置いて、鏡に映った自分の顔を見てニコっとしてから営業電話してました。

自分がやりたいことを30歳になるまでには「決めたい」と願っていた小野さん、本屋にあった「コマーシャル・フォト(玄光社)」というプロカメラマン向けの雑誌を手に取り、とある求人を見つけます。

小野:こんな本あんねやと思って、本の裏の方に「アシスタント募集」ってのがあったんすよ。僕の親父がカメラを趣味にしてたこともあって、家にカメラあったんですよ。「そういえば家にカメラあるな、ほな、いけるかな」
今まで見たどの仕事よりも楽しそうと思った。

小野さんが見つけたのは、芦原橋(大阪市浪速区)にあったという『スタジオ21』という貸しスタジオが出したアシスタント募集の求人でした。早速、電話連絡をします。

小野:面接の人が「キミ、いくつ?」って聞くので「26歳です」って返すと、「26歳か、キミ遅いなあ」って言うんですよ。「カメラマンになりたいんか」と聞かれるので「なりたいです!」と返事しました。

「26歳になるまで何をしとったんや」と聞かれたので「公務員してました」って答えると、面接の人が「こ、こ、こ、公務員!?」って。笑

藤田:一般的な反応はそうですよね。

金曜日にスタジオに電話をかけ、土曜日に面接に行き、翌週の月曜日からカメラマンのアシスタントとして働くことになった小野さん。

小野:当時カメラマンにはランクがあり、入社したばかりは『C』、経験を積んだら『B』、実績もできたら『A』という具合でお給料も違うんです。僕はもちろん『C』なんですけど、『Cランク』には全館清掃というタスクがあるんですよ。『C』は他にも何人かおるんですけど、絶対に1人で清掃やったろうと思ったんすよ。

朝一にスタジオ到着したら、だぁーっと掃除して入口で水撒きしながら先輩カメラマンたちを迎え入れて「今日も勝った」って余韻に浸ってましたね、誰も僕に挑んでないのに。

それだけ自分の居場所を探すのに必死やったんです。そういう姿をおもろいやんって興味持って見てくれてたお客さんもいて、そうした人たちは僕に仕事をくれるようになりました。

小野さんはミスっても良いから名前を覚えてもらいたくて、自分の名札を付けて仕事をするようになります。そのうち、お客さんから「小野さん」と指名が入り出すようになり、給料にも反映されることとなりました。

小野:指名はめっちゃ嬉しかった。そういった「前のめり感」はちゃんとお客さんに伝わったんかなって。

小野さんが思い出すのは、非常に気難しいと言われる職人気質のカメラマンと一緒に仕事をしたときのことです。

小野:周囲の人から「お前、今日はアソコやな。気をつけろよ」って言われたんですけど、「気を付けるって、なんやねん」って思いました。相手が怒ったとしたらオレに足りてないとこがあるだけや、ようし、絶対に黙らせたろと思ったんです。

確かに、ギャーギャー言う人やったけど、次どないするんかなっていうのを先読みして動いてたら、仕事終わりに「今日ありがとうな」って言うてくれはったんです。

もう、それでギャーギャー言われたんはチャラ。それを続けていったらその人が「小野君、海外に興味ないんか」って言うんです。

そのためにカメラマンになったようなもんです。と返答しました。当時は「海外に行ってました」でハクが付くみたいなのあったんですよ。

二つ返事で「行きますわ」と返事した小野さん。その帰り道に自分の愛車を中古車屋へ売りに行き、そのお金を握ってHISでアメリカ行きのチケットを購入するという大胆な行動に出ます。

小野:2枚だけ空いてたので行きました。写真やったらニューヨークという先輩の言葉もあり、夜行便の安い飛行機で行ったんですよ。行ったけど全くアテもないわけですよ。ほんで、ホテルもどこ泊まってええかもわからんし。

バックパッカーズ・ホステルで25ドルってとこに空室があったので、入ってみたらベッドが2つあるんですよ。「オレ、シングルやで?わかってる」と受付に問うてみたら、そこはシェアホテルやったんですね。

1日目は誰も来なかったけど、2日目の朝、扉をコンコンとノックする音が聞こえて、部屋に入ってきたのが日本人だったんですよ。

偶然、小野さんの部屋にやって来た日本人男性。彼は東京にあるリーバイス(Levi's Japan)を退職して、エルパソ(テキサス州)にあるジーンズの工場へ行ってみたいのだと話します。

小野:彼とは2~3日ぐらい一緒に行動したんだけど、僕は写真を撮影したいから一旦ロスに戻り、レンタカーを1週間ほど借りる手配をしてそこから当時、宮沢りえの写真集で話題だったサンタフェ(ニューメキシコ州)を目指すんです。

『Santa Fe』1991年発売

小野:宮沢りえの『Santa Fe』が気になって、サンタフェも知りたいなと思ったんです。で、サンタフェ到着しても、宮沢りえはいないですよね。なので、写真を撮りながら宮沢りえがこの街におったんやと感じてました。

一方で、アメリカ大陸って一度入ってしまうと退屈な景色が続くんですよ。「海を見たいな」と思って地図を広げると、そこから一番近いのはコーパスクリスティ市(Corpus Christi)の海やったんです。ここを目指しました。

ニューメキシコ州のサンタフェから、海を見るためメキシコ州のコーパスクリスティまでカメラ片手にレンタカーで移動した小野さん。そのまま知人のいるロスアンゼルスまで引き返そうとしたとき、不意に出会いがやってきます。

小野:ロスに帰る途中でヒッチハイカーがいててアルバカーキまで行きたいと。ニューヨークのシェアホテルで出会った友達がエルパソにいるんで、アルバカーキの途中にエルパソがあったんで行こうと思ったんです。

今のオレやったら「オレはエルパソ行きたいから、途中で降りて」って言えるんやけど、「アルバカーキまで送ってやる」ってヒッチハイカーに言うてもうたから、エルパソをスキップして行ったんですよ。そして無事に乗せていきました。

帰り道、フリーウェイは退屈なので地道を走ることにしたんです。途中、アリゾナ州のビスビー(Bisbee)に銅山の露天掘り跡があったんですね。露天掘りと言われても穴ぼこだけやから「まあ、えっか」と通り過ぎようとしたら、大きなカメラを構えたカメラマンがおったんです。

英語は得意ではない小野さんですが、カメラマンとしてどのような機材を使っているのか、盗める技があるのではないかと気になり、通り過ぎた車をUターンさせてカメラマンのところへ向かいます。

小野:Uターンして、パッと見たら浅黒いおっちゃんで、髪の毛も黒く、どう見てもアジア人やんと思ったんです。お互いサングラスしてたんで、それ外して「すいません、日本人ですか」って問うたら「そうだよ」って。

「何されてるんですか」って聞いたら「作品を撮ってるんだよ」って。

『作品』って言い方をカメラ好きはせえへんなと思って、「すいません、お名前は?」って聞いたら、ミヨシコウゾウですと。

え、誰かわからんけどコウゾウって名前が一緒いうのが気になったんです。キミは?って聞かれたから「小野晃蔵です」と答えました。

三好:キミもコウゾウか、どんな字書くの?
小野:日に光るの蔵(くら)です。
三好:字はキミの方が良いね。僕は耕すに三だよ。
小野:耕すに三でもいいじゃないですか。
三好:キミ、どこに泊まるの?
小野:コレです。(レンタカーを指さす)
三好:じゃあさ、キミがうちに泊まってもいいか奥さんも今いるから聞いてみるよ。
小野:ええっ

三好さんの奥様から了承が出て、18時に合流しようと約束し。それまでの時間、ビスビーの町を探索する小野さん。いよいよ、三好耕三夫妻のお世話になることとなります。

小野:初めてやったんですよ、作家に会うの。今まで出会ったのはコマーシャル系のフォトグラファーばかりやったから、クライアントありきなんですよ。クライアントいなく、自分の創ったものを世に出すっていう人。もちろん、お抱えのギャラリーはあるんでしょうけどね。

三好耕三(みよしこうぞう)
1947 -
千葉県出身の写真家

なんでアリゾナにいるのか尋ねたら、日本の文化庁の派遣制度を使ってきてるって教えてくれたんですよ。「ちょっと待ってくれよ、日本の宝やんけ!すげえ!こんな人と出会うなんて」と思いましたし、ご飯食べさせてもらって、その後には当然ながら写真談義が始まったんです。

写真談義の最中、三好さんは小野さんに近くに世界的に高名な写真の研究所があることを教えてくれます。もちろん、小野さんはそんなこと初耳です。

小野:アリゾナ大学の中に『アリゾナ大学創造写真センター(Center for Creative Photography:以下、CCP)っていう写真の研究所があるって、三好さんが教えてくれたんです。「ホントに知らないのか?」って。笑

「すごいよ、なんも知らないでここに来てるんでしょ、すごい」って三好さんから言われたけど、「そうなんかな」って恥ずかしかったですね。三好さんが「僕の作品を見るか」って、わざわざソファの下から作品を出してくれて、白手袋をはめてモノクロのプリントを1枚ずつ見せてくれるんすよ。

小野:これ、まだ未発表でしょ?

三好:そうだよ、写真なんて見てもらわないと意味ないじゃん

そうか・・・、コマーシャル業界にいると先に見せてはいけないとかルールがあるじゃないですか、でも、作家はそうじゃないから僕みたいなペーペーにも色んな作品を見せてくれたんです。

今は白いチャペルを撮ってるんだとかね。三好さんの写真の特徴として、彼は撮りたいものを画面のど真ん中に持っていく主義なんだけど、チャペルの前にペプシの空き缶が転がってるんですよ。「三好さん、撮影するときこのペプシの缶をのけないんですか?」って聞いたんですよ。

そしたら、「そうだね。この日この場所で僕がペプシの缶と出会った意味だよ」って教えてくれて、「なんだそりゃ!」と思いましたね。

この人は全てを受け入れるんだ、ってね。起きた事柄がそのまま真実。自分では細工しないという発想が、コマーシャルの世界にはなかった潔さが格好いいって思った。それなら敢えてコマーシャル系の人たちに聞けなかったことを聞きたくなって「三好さん、変な質問かもですけどカメラって高価な方がいいですか」って問うたんですよ。

三好さんに大笑いされて、「ちゃんとカメラとして動くかどうかというのはあるけど、ホントは関係ないよね」って言われた瞬間、「ですよね!」って。笑

僕、コマーシャル系のスタジオに属してたんで、先輩たちがカメラはあれでこれでと言うのを「そうなんかなあ」って違和感あったんですよ。

そういった他愛もない質問を一杯した次の日、三好さんがCCPに暗室を借りてるので案内してあげるよと誘ってくれたんです。仕事場なので一般人は入れないとこなんだけど。「うわー」っていう感想で終わるんです、当時の僕は写真をはじめて9ヶ月しか経ってなかったんから。

それでね、CCPの下にギャラリーがあってアンセル・アダムス(写真の神様と呼ばれている)っていうアメリカの写真家の展覧会があって、その展覧会の写真を三好さんと一緒に見ていきました。

アンセル・アダムス(Ansel Adams)
1902 - 1984
アメリカの写真家

小野:アンセル・アダムスは、暗室の中で『覆い焼き』の技術を使うんです。プリントするときに「ここだけ色を濃くしたり薄くしたりできる」技術があり、その技術を使うアンセルが撮ったアリゾナの空は黒いんです。

「僕は空は明るいから、黒じゃないと思ってるんだ。そうやってアンセルと勝負してるんだよ」って三好さんが言うんです。僕からすると「勝負してる」って言えちゃう三好さんがね。もちろん、三好さんの作品もCCPに収蔵されてる。

午前中は三好さんにCCP内を案内してもらって、昼からお仕事があるっていうから「三好さん、最後に写真撮らせてください」って言ったら、「いいよ」って言ってくれたんで、階段のところでカシャと2枚だけ撮らせてもらいました。

「サンフランシスコに行くと、アンセルのミュージアムがあるから行ってみたら」と三好さんが教えてくれたので、そこへ向かうわけです。

道中、デスバレーを通りながらここ数日のことを思い返して「気持ちわる」ってなったんですよ。なんであんな人の気配がないようなところに三好さんがいて、それを発見して車を引き返して、出会って、神様みたいな人。で、そこには写真の研究所があって・・・、なんじゃ、こりゃってね。笑

きっと、写真の神様がホントにおって、上の方から『お前、何をグジグジ考えてんねん。お前、今までなんぼでもやってきたやろ、もうコレ(写真)にせえや』と言われてるんやろなって感じました。

そうやんな、こんな素敵な出会いがあるのにカメラマンにならん手はない、『よし、なろう!』と思った瞬間、スイッチが入ったんでそこから他のことは考えずにカメラマン一直線。やから、アンセルのミュージアムにも行かずにロスに戻って車を返し、今回の旅で撮影した写真を現像しました。

もちろん、その時はフィルムのカメラにモータードライブを付けてたんで一度カシャと押したら1コマが動くんです。ただ、そん中の1コマだけ二重写りになってるんですよ。「ええ」っと思ったんですけど、その写真が三好さんを撮影した写真なんです。三好さんが縦横でクロス(十字架)になってる。

「うおお、三好さんホンマに神様やん!」ってホンマに鳥肌よ。笑

三好さんと前コマの写真でも後コマの写真でもなく、三好さんと三好さんがクロスになってんねん。モータードライブでそんなことある?多重露光なんてしてへんでって。もしかして、ヒッチハイクした奴が神様やったんちゃうかと。

阿守:ニューヨークに到着してからの短い期間にいろんなことが重なって、その一連の出来事の最後にその写真が出てきたんだから、鳥肌たちますね。ヒッチハイクを乗せなければ、三好さんとも会ってないし。小野さんが導かれてると感じても不思議ないわ。

藤田:1つ1つの物事の捉え方が小野さんって特別やなと思います。仮に僕に同じことが起きたとして、ビスビーの銅山で写真を撮影してる人がいても、「なんかやってるわ」って通り過ぎるかも知れない。ヒッチハイカーがいてもアメリカでは「ヒッチハイカーを乗せるな」っていう看板もあるんで、乗せないっていう選択肢もあるじゃないですか。

つまり、起きてることが一緒だとしても、捉え方が全然違うなって思います。それによって、小野さんが導かれていくのは感じますね。

阿守:自分は写真家になると決めてギヤを入れた小野さんは、そこから独立するわけですね。

小野:独立はできないです、アシスタント9ヶ月やから。そこでややこしかった人から「フリーで仕事やってるから、来いや」って言ってもらい、そこからちょっとした仕事をもらっていくわけです。

阿守:何かたった1つの出会いが、1人の人生の向かうべき道を確定つけるっていうことに、僕はすごく前向きな可能性を感じるし、そういう人たちって都会で出会うと何も起きないこともあると思う。あくまで作為的に用意されていなかった場所に、運のみで出会ったことが互いに強いエンゲージを生み出すんでしょうね。

小野:うん、多分ね、日常でもあるんですよ絶対に。それに気付けない。なんかね、会ったときのシンパシーっていうか空気感っていうか、それが初めてやけども、そんなことはどうでもいいというか。初めましてだけど、なんか通ずるものを感じるというかね。

アメリカでの衝撃的な出来事や先輩カメラマンからの誘いもあり、小野さんはカメラマンとして仕事が来るようになり、忙しくなっていきます。

小野:周りから「今、大阪で飛ぶ鳥を落とす勢いちゃう?」みたいなことを言われてたけど、しんどかったですよ。ただね、忙しいだけで僕が撮ってる写真を他の誰も撮られへんのかっていうたら、「撮れるよな」って思ってて、自分の肩書をフォトグラファーにしときながら、海外にチャンレジしたことないっていうのが、すごいイヤで。

他のフォトグラファーとか関係なくて、自分がどうなんやっていうだけやから。「これでフォトグラファーって言うのもなあ」って悩んでて、カメラマンとして独立して7年目の37歳のときに「今やな」ともう1回リセットしようと思ったんで、イギリスのデヴォン州のプリマス(Plymouth)という町に語学留学へ行ったんですよ。

その語学学校が良くて、毎週土曜日に遠足があるんです。それが留学のセットに付いてるんです、自分が知らなかったランズエンド岬(Land's End)とか行かせてくれるんです。あの辺の小さい港町とか、ホントに楽しくてね。半年過ごして、英語を間違えることに自信がついたんですよ。

日本におって英語を喋ってたら、隣で会話を聞いてる人から「今、間違ったで」とか思われてるんちゃうかと考えたりするじゃないですか。英語が喋られへん人が多いのは、間違うことが怖いからやないかな。でも、イギリス行ったら語学学校の生徒やし、日本人やし英語を間違って当然やんって。

間違うことを恐れなくなったら、でたらめ英語でもバンバン使えるようになりました。

阿守:その分、感情と直結した表現になったでしょう。

藤田:わかる。僕も通訳を通さずに海外の仕事をしてるのは、「わざわざ、おたくらの言語で喋ってるんやから、そっちの方が理解しろよ」って思ってるんすよ。やから、僕も自分が間違うことに対して、「いや、間違って当然やろ、第2言語なんやし」って思ってますね。

小野:それで自信がついてロンドンに自分の作品を持って行くんです。けど、なかなか誰からも相手にされへん。そういう時期が何カ月もあって、結局、他人様に向けて「こんなことをしてきました」って言えるお土産がゼロやん。まあ、ええか帰ろうって帰ると、みんなが口を揃えて「どうやった」ってなるわけですよ。

何も言えない、お土産ないから。ただ一つ、「オレの将来に必要だったわ」だけ。それしか言えない。笑

SPINNING MILLとの出会い


小野:イギリスから帰ってきて、弁天町の古いパン屋の寮みたいなとこ借りて、そこをスタジオ兼住居にしたんです、すごく狭かったんですけどね。そこで結婚もして子供もできて、仕事する環境じゃなくなってきたなと思ったんでスタジオを探し出したんです。

それで知人に紹介されたのが心斎橋の農林会館。「めちゃくちゃええやん、なんかヨーロッパみたいで、家賃なんぼすんの?40万以上!それは無理やなあ、悔しいな」って思いながら夜な夜なネットサーフィンしてたんです。

「大阪」「物件」「レトロ」「レンガ」で検索してね。

僕がスタジオを構えるのに、白い箱のスタジオって絶対に面白くないし、オレらしくないと思ったんですよ。「あー、小野さんキレイなスタジオですね」じゃなくて「なんじゃ、ここ?」っていうのを絶対に探してやろうと思ったんですよ。そしたら出てきた。売り物件、4500万円。

「金ないぞ・・・、やけど、見に行こう」って。物件のオーナーもここを潰す人に売りたくないねん、残してくれる人に売りたいねんって。

僕も「ここ絶対に潰したらダメですよ、僕のとちゃいますけど、阻止します。オーナー、僕、ここを買います」って言うて、その後で「ただ一つ、ちょっと問題がありますお金ないです。でも心配しないでください、お金は銀行が持ってきます。銀行を口説く自身はまんちくりんありますから」って。笑

僕より後に現ナマを積んできた奴がおっても、僕が「ギブアップ!」いうまでは絶対に待ってください。絶対に銀行を口説くんでって説得したら、「おもろいこと言うなあ」ってオーナーが待ってくれたんです。

それが2013年の7月下旬。で、結局、銀行を口説くのにそれこそ10回ぐらい行って、11月15日に契約です。もちろん、その間はいろいろあったんすよ。うちの両親や奥さんの両親も力になってくれて。

阿守:みんなで手に入れた場所。

小野:だって演説で立ち上がって「そこが手に入れば、ひいては堺市のためになります」って言いました。

藤田:それが今のスピニングミル。すごい。

小野:『SPinniNG MiLL(スピニング・ミル)』って名前も元々は紡績工場の建屋で、「紡績工場」を英語翻訳したらコットンミルとかスピニングミルとか出てきて、これ絶対スピニングやんって思ったんです。回したいし。

スピニングミルの意味は『イトをつむぐ』
オレは一文字変えて『ヒトをつむぐ』

よう、できてるわぁ。笑

阿守:それでは、ここで小野さんから一曲お届けしてもらいます。

小野:『チョキチョキマンのテーマ』/ ズクナシ


後編に続く


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