人生に影響を与えた人
直接的でも間接的でも「人生に影響を与えた人」って誰しも1人くらいはいないかな?
歴史上の人物でもいいし身近な人でもいいし
もしかしたら気づいてないだけで、振り返ればいませんか?
私は少なくとも2人いる そのうちの1人がイタリア語の恩師
☆1993年春
1991年高3の秋に路線変更して美大受験をすることに決めた
私の母校では美大受験した生徒がそれまでおらず、第一号だった
運よく、県から派遣された事務員の方が美大受験経験者で放課後にデッサンや平面構成といった美大受験に必要なことを教えてくれた
加えて、その方のアドバイスに従って冬季(冬休み)・春季(春休み)と某予備校の美術研究所の講習を受けに名古屋の叔父家族のもとに身を寄せて通ったが残念ながら短期大学の補欠合格のみとなった
しかし、「現役合格」よりも「四年制大学」へ行きたい、「私立」よりも「国公立」という想いが当時はあって補欠合格は見送った
1年の予備校生活ののちめでたく1993年春に美大入学
そこで「イタリア」との関わりのきっかけを作った人物と出会う
☆英語が大の苦手
中学校1年の英語の成績は良かった
中学校2年生に上がった時、担任で英語担当の先生がどうしても受け入れられなかった
今思えば「なんで?」と思うのだが、風貌は「金八先生」そっくり(背格好も顔も)で、ドラマの金八先生同様に「熱血」
単に「暑苦しい」かったんだと思う(笑
しかも女子の出席番号「1番」の私は左から男子が並んでいくと、ちょうど教壇の真ん前に席がなる(男女共学なのに左右で男女分かれた席順だった)
教壇の真ん前、ということは「暑苦しい先生」の目の前
どうしても「暑苦しい」にフォーカスしてしまい、肝心の授業が上の空だった
その上、英語の発音が解せなかった
「Orange」と書いて「オレンジ」(実際の発音は違うが)なのに単語を覚える時は「オランゲ」と覚えているので、発音できない(Orangeよりもっと複雑な発音のもの)
文法もなんだかチンプンカンプン
そんな状態なのに実姉が英語ができたものだから比べられる
それがまた嫌で、、、、
大学受験が終わったら「英語」はノーサンキューと思っていた
☆イタリア語との出会い
英語が大の苦手・嫌い・できればやりたくない
中高の6年間、英語の授業を受けたのに「何一つ」身についてないし(笑
で、大学に入学したときに「英語以外」の語学を選択することを決めていた
私の母校では外国語は1つの履修でよかった(第一外国語・第二外国語というのではなかった)ので英語を除く「中国語・ドイツ語・フランス語・イタリア語」ぁら1つ選べばよかった
まず、中国語は全く興味がなかった 次にドイツ語は言葉の響きが「硬い」感じで受け付けない、フランス語は「鼻から抜ける」感じができそうにない、最後に残ったのがイタリア語で「(ほぼ)ローマ字読み」でいいという理由でイタリア語にした
そして2人のイタリア語の先生のオリエンテーションを受けた(最初の1回目に授業を受けて変更したければ、他の語学に変えることができた)
それが最初の「イタリア語との出会い」だった
☆二人のイタリア語の先生
イタリア語の授業は二人の先生に教わることになった(今となっては同士てか分からないが、多分教える内容が違ったんじゃなかろうか)
どちらも日本人の男性の先生で、中学の時の英語の先生とは反対にどちらの先生ともに好感を持った
余談になるが、昔から「好きな先生」の科目だけは成績が良かった
高校時代も古典の先生が好きで自主勉強したものを毎日ノートを渡して添削してもらっていたのでセンター試験の国語だけ1問不正解の高得点に(英語と数学は壊滅的点数)
それで、現金なもので「できない子と思われたくない」という一心で「すごく」イタリア語を頑張った(笑
N○Kのラジオ講座、家にあるものに付箋紙でイタリア語表記、イタリア映画の字幕部分にガムテープを貼りイタリア語で見るなど
外国語の授業とは別に「イタリア語会話」という授業もあったので受けていた(会話はイタリア人女性の先生)
☆イタリア短期留学を勧められる
私は大学でインテリアデザイン専攻していたので本来は「実技」が本業
学科はもちろん履修して必要な単位を取得しなければならないが、取得さえすれば良くて学科に力を入れる人はあまりいなかったんじゃないかと(芸術学部とか教職免許・学芸員免許を取るような人以外は)
それなのに私は「イタリア語」に注力するように
2人のイタリア語の先生のうち、今もお付き合いのある恩師には本当に親身になっていただいて、授業以外の自主勉強用に課題をいただいてみてもらったり、イタリア映画をダビングしたものをいただいて聞き取りの練習したり
そして大学1年が終わる頃「春休みを利用してイタリアへ語学留学してみたら?」と勧められた
ただ、この時の春休みは酷くなる一方の扁桃腺炎のため手術を予定していていけず、翌年の春休みに行くことになった
☆初めての短期留学
大学3年になる春休み、1995年の2月に初めてのイタリア短期留学
ありがたいことに語学学校の手続きなどは全て恩師が対応してくれたので、自身はフライトの予約と記憶が定かではないがホテルの予約をすればよかった
初めての海外がツアーではなく個人なので、母が心配して海外経験があり英語の話せる姉にホームステイをするフィレンツェまで付き添うように頼んで、姉妹でイタリアへ行くことに(姉妹の旅自体も初めてだった)
成田で前泊、フランクフルトで4時間のトランジット、ローマ空港について・・・・白タクに捕まらないようにするためにローマ・テルミニ駅ひとつ手前の駅で下車してタクシーに乗る
乗車前にドライバーにしつこく料金について確認する(笑
◆思いの外、英語が通じない
「英語が話せる姉」ということで母も安心していたが、なんと空港到着から「英語が通じない」ことに面くらう 「英語は世界共通語」という意識だったので列車の切符を買う時も姉が英語で話しかけた、しかし通じず
結果、私が話さなければならない(まぁ、そのための留学なんだが)
以降、7割は私・3割(英語が通じるときは)姉が諸々の対応をすることに
ある意味、学習するにはもってこいだった
◆いく先々で恩師のサポート
語学学校の手配だけでもありがたいのに、いく先々で恩師のサポートがあった
それは、恩師の知り合いとコンタクトをとってくれていて現地で彼らがサポートしてくれた
ローマでは恩師の大学院時代の友人で日本語の話せるイタリア人Antonioがローマの街を案内、食事までご馳走になる どちらかというと「アメリカ派」でヨーロッパには全く興味のなかった姉は最初のローマ滞在ですっかり「イタリア好き」になった
フィレンツェではフィレンツェ大学留学中の太郎さんと繋いでもらい、フィレンツェの街を案内してもらい、最後はホームステイ先まで連れて行ってもらった
他にもフィレンツェのJTB勤務の日本人の方を紹介してもらったりと、初めての留学派恩師の繋がりでサポートがあったので心強かった
☆翌年も短期留学
初めてのイタリアに「色んな意味で」刺激を受けて、翌年の春休みも短期留学することに 2度目はさらに長めに滞在
姉までも「新婚旅行」をイタリアにして、私の滞在中に姉夫婦とローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアと回った ある意味、姉も恩師に影響を受けたひとり(笑
そんなこんなで、すっかり「イタリア」にはまった私は4年生になって、早々の「進路ヒアリング」で「就職しません、イタリアへ留学します」というまでに至ったのだった
卒業後、1年半留学資金を貯めるために派遣で働いたのち、9ヶ月のイタリア留学
その時にNovellaと出会った
☆恩師との出会いがあっての今
いくら「英語が嫌いだからイタリア語を選択した」と言っても、教えてくれる人次第ではイタリア語に注力しなかったし、恩師が親身になってくれる方だったから自主勉強もしたし短期留学もした
恩師との出会いがなければ、普通に就職してイタリアに来ることすらなかっただろう
だから、今こうしてNovella宅で滞在させてもらって「旅行ではないイタリア」を経験できるのも元を辿れば恩師のおかげ、感謝しても仕切れない
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