「やり遂げる自分」と「意見を言えない自分」

2024年2月に受けたディマティーニ・メソッド・トレーニングプログラム
感想レポ③

ディマティーニ・メソッド研修3日目。

今日は8時間セッションしてました😇
ファシリテーター役4時間、
クライアント役4時間。

めちゃくちゃ疲れてるんだけど
心は元気(実際の人生の体験から真理を見つけていく喜び✨)

そしてたぶん疲れが溜まってきて
ちょっとおかしなテンションになってる🤣

今日も盛りだくさんだったけど、最後、
「やり遂げる自分」「意見を言えない自分」を対象にワークをしました。

◎最後までやり遂げた! =私にとって自分を誇りに思っている部分

◎意見が言えない =ダメだなと恥じている自分

この感情のバランスを取っていく。

このメソッドを学んで実践を重ねながら、
ブロック解除(潜在意識書き換え)との違い、
どういうときにどっちが良いか、
みたいなのを自分の中で検証しているのだけど・・・

ひとつわかってきたのは、
ディマティーニ・メソッドは
【思考回路の書き換え】
という側面があるということ。

やっているうちに、新しい神経回路ができていく、
という体感がある。
なんか、新しいニューロンがつながる感じ🤣

質問に答える中で、
考えたことのないことを考える。
今まで見えてなかったことを見に行く。

そのときに、新しい思考回路が生まれる。

リアルな人生のリアルなできごとを対象に
やってみる度に発見があって
感動する🥹

***

それで、今日、自分自身を対象にやったワーク。

「やり遂げる自分」への誇りは
ひとつは、大学を卒業したことに紐づいていて。
(厳密には、卒論の発表をして試験にパスした瞬間)

人生の中でその瞬間を、すごく大事に思っていて。
間違いなく、「自分はすばらしい」と感じた瞬間のひとつなのです😂

そんなふうに「誇り」に思っているのは、裏を返せば
そこをけなされたり、否定されたり、軽んじられると
すごく傷ついたり、
自分自身を全否定されるように感じる、
ということと隣り合わせで。

そしてその(成功)体験を、自分から奪ってしまうと
自分には何も残らない・・・みたいな
それがあったから、自分はすばらしい、みたいな
そんな自分への「条件付け」をしてしまう要因になったりもする。

もうプライドにしがみつくのやめようと思っていて
それを手放す(というかぶっ壊す😅)つもりで今日はワークをやっていて。

で、詳しい内容ははしょるけど、
「やり遂げる」の代償(デメリット)を直視して
やり遂げずに途中で放り出す自分が存在することもしっかり認識して

一番インパクトが大きかったのは
「もしあれをやり遂げていなかったら」私の人生は
どうだったのか?
ていう部分で

私が、人生の一番の成果物(とまでは言わないけど😅)のように思っている
自己価値とガッチリ結びついている
その瞬間、その成果がなかったら

私の人生はどうなっていたのか??

そんなの仮定の話でどんな可能性だってあるんだけど

でもこの問いに向き合って出てきた答えは

「全く問題ない」

ていうか
むしろ、もっと違う経験を得て、
私の人生は、どちらにしろ豊かだった。

やり遂げたことは、すばらしかったかもしれない。
でも、仮に途中で放っぽっていたとしても、
それでもすばらしかった。

最初、「やり遂げる」ということが
プラス(ポジティブ)に傾いていて
マイナス(ネガティブ)が見えていないところから

プラスとマイナスがイコールになって
完全にフラットになったときに

あ、どっちでも良いんだ🥰
本当に、本当に!!!どっちでも良い!!!

やり遂げるのも途中でやめるのも。
どちらにもプラスマイナス両方ある。
どっちの方が良いとか悪いとかマジでなくて。

これまでは、これですべて、完璧で。

これからも、別に、どっちでも良い、
自分がしたいようにすれば良い。
どうせ正解も不正解もなく
どっちにもメリット・デメリット両方ある。

やり遂げたからって自分を過度に褒めることもないし😅
途中で投げたからって自分を責める必要もない。
どっちを選んだとしても100点満点。

この、「ニュートラル」な状態になるっていうのは
ゴールとしてはブロック解除も同じなんだけど
辿るプロセスが違う✨

長くなってきちゃったけど私は
「もしこの体験が人生から取り上げられたとしても
それでも私の人生は同じようにすばらしいし
周りにいる人間関係も、何も変わらずすばらしい」

そこを腑に落とせたのが、今回すごく良かった。

「やり遂げた自分」という実績に
しがみつく必要がなくなった🥰

あー、羽が生えて軽くなった気分✨

***

同時進行で、
「意見が言えない自分」

議論が理解できなかったり
意見がなかったり、
あっても言えなかったり

その自分をダメだ、情けないと思っているところがあって。

その価値観はアメリカ留学中、
「意見を言わなければ存在しないのと同じ」くらいの文化の中で
めちゃくちゃがんばって意見を出せるようになろうと努力した過去だったり

もっと前をたどれば、
家族の中で、よくしゃべる姉二人に対して私は大人しかったから
そういうところから来ているのもあるんだけど。

留学中に限らず、その後の仕事でも
議論が進行する中で
「黙っている自分」
というのに、いたたまれない気持ちになっている
瞬間は人生にたくさんあって。

ちなみに今日のセッションでも
私がファシリのときのクライアント役が
まあまあしゃべる人で
ちょっとその圧に押されて、介入すべきとこに口をはさめない・・・
みたいな場面も多々あり、
「言えない自分」のセルフイメージをまた強化🤣

そこから役を交代して、
「黙って聞いてしまう、意見を出せない自分」を題材にやってもらったわけなんだけど😆

これもね〜〜〜
ワークをやって、ひとつひとつの過去のシーンを
よくよく思い出していくと。

逆に気づいて恥ずかしくなるくらいに
自分の「自意識過剰」ということがわかった。

黙っている自分、言えてない自分、ということを
拡大鏡で見て、ダメだダメだって自分をその瞬間に責めてるんだけど

なんにも責める必要なかった・・・・

誰にも迷惑をかけないどころか

そういう形で、私は周りに貢献していた。

別に正当化するわけじゃなくて、
事実としてそうだ、ということが見えてくる。

私は私の役割をちゃんとやっていた。

自分にも周りにも、メリットがあった。

むしろ私が、黙っていられずに意見を出しまくる人だったら

支障をきたしていた🤣

まあ私の理想は、
場を支配することではなく、
一回で良いから、
【的確な、本質をつく、新しい視点の発言ができて、印象に残す】
ということだったんだけど
(それもワークしながら露呈した、、)

でもその理想が出てきて
「何なんだこれは」と自分に突っ込んだよね・・・

ハードル高すぎだよね🤣

まああとは、少なくとも
バカで能無しと思われないように
何か一言言って存在アピールしたかった、
が本音なんだけど。

理想のシナリオは、それを自分に毎回求めることの方が
無理がある。

そして黙っていたらバカで脳無しと思われるは、
私の幻想だった😇

「意見を言う」とか「声が通る」とか「話が上手い」とか
私にとってどうやらすごく大事らしくて。

そこで毎回自分を裁いていたり、
他人を評価したり(見下したり見上げたり・・・)

してたんだよね。

無意識レベルで。

心が忙しかったなあって思う。

たぶん、「声」はキーワードだから
もうちょっとワークしてニュートラルに持っていきたいなと思うんだけど。

でも今日のだけでも、
おかしな幻想から目を覚ますことができた。

それ(意見を言う、言わない)で自分を裁かなくて良い。

黙って聞く自分を恥じなくて良い。

言いたいことがあれば言えば良くて。
それができる自分っていうのも、ちゃんと知っていて。

黙って聞こうと思う時は、黙って聞けば良い。

どっちでも良い。

どっちでも良い、
であり、

この私で良かった。

自分から、
自分の人生から、
何一つ、
本当に、ひとつたりとも、

変える必要がない。

それがまた、
一段階クリアになった🥰


▼④へ続く


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