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モーリス・ラヴェルの葬儀
作曲家モーリス・ラヴェルは1937年12月28日の午前3時25分、パリで亡くなりました。享年62才でした。
その2日後、12月30日にルヴァロワ=ペレ墓地で執り行われた葬儀には、モーリス・ラヴェルの弟のエドゥアール・ラヴェル、ピアニストの友人リカルド・ビニェスやロベール・カサドシュ、作曲家のアルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、イゴール・ストラヴィンスキーらが参列しました。政府代表として国民教育省の大臣ジャン・ゼィが弔辞を読み上げました。この原稿の原本はフランス国立公文書館のジャン・ゼィ文書コレクションに保存されています。
ラヴェルの葬儀から87年目のきょう、ジャン・ゼィによるラヴェルへの弔辞をご紹介します。非常に長文ではありますが、ラヴェルに対する深い敬意を示した歴史に残る名文です。
*モーリス・ラヴェルの葬儀の映像記録。日本モーリス・ラヴェル友の会X(旧Twitter)より、下のXのサムネイルをクリックしますと動画がご覧頂けます(23秒間)
©GP archives
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左端はラヴェルの弟、エドゥアール
国民教育省大臣ジャン・ゼィによる、モーリス・ラヴェルへの弔辞
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Jean Zay (1904-1944)
アルベール・ルーセル(注:フランスの作曲家、1937年8月23日没)の死からほんの数ヶ月しか経っていませんが、フランス音楽界は再び新たな喪失を迎えることとなりました。モーリス・ラヴェルが音の世界を去り、静寂の中に消え去ったのです。実際、ラヴェルはすでに私たちを半ば見捨てていたと言えます。芸術家たちの運命には、しばしば人生の終わりが、オルフェウスのように早すぎる「影の世界」への降り立ちによって訪れることがあります。ラヴェルも、ジェラール・ド・ネルヴァルやシャルル・ボードレール、ロベルト・シューマンと同じような運命をたどったように見えます。どうやら、「幻想の暗い恨み」は、ある種の天才には必然的に襲いかかり、その光り輝く存在をより一層際立たせるようです。悪は、彼らを打ちのめすために、彼らの最も高く、最も確かな部分を狙い、そしてその犠牲者がいっそう豊かで輝かしいハーモニーと明晰さを放ったとき、その打撃はますます悲劇的なものとなります。
この美しい存在は、完全に命を閉じる前にすでに力を失っていましたが、その生き生きとした輝きこそが、彼を最も知的で精神性に満ちた存在の一つにしたものでした。その輝きだけは、私たちの記憶の中で永遠に残り続けるでしょう。ラヴェルは、私たちが知る限り最も精神的で、豊かな意味での「精神性」を持った人物の一人だったのです。ラヴェルについて語ることは、今私たちが感じている悲しみを超えて、軽やかで繊細な美しさを称賛し、逆境を越えて、知性の純粋な力を再確認することでもあります。
モーリス・ラヴェルの人生は、まさに「知性」を象徴するものでした。彼の視線や微笑み、そしてその神経質で精密な全身の動きからは、彼が人生に愛され、特別な恩恵を受けていることが伝わってきます。ラヴェルは海沿いの太陽が輝く土地で生まれました(注:1875年3月7日バスク地方シブール生まれ)。彼が音楽家として活動を始めた頃、音楽や絵画は、自然界の中で輝き、音を立て、震え、脈打つものを表現しようと模索していた時代と重なります。
ラヴェルの名前を、彼の偉大な先輩であるクロード・ドビュッシーと結びつけることは避けられません。特に、ラヴェルの初期の作品に見られる「水」や「鏡」を使った表現技法は、ドビュッシーの影響を色濃く受けているからです。しかし、ラヴェルは次第にドビュッシーとは異なる独自の音楽語彙と表現方法を築き上げました。この点については、音楽の専門家たちが詳しく説明できるでしょう。また、ラヴェルがドビュッシーから受けた影響と、その創り出した幻想的な芸術の空気が、次世代の作曲家たちにとってどれほど重要だったかも語られるべきです。ラヴェル自身も、その影響を感じていたに違いありません。さらに、ラヴェルが師として慕ったガブリエル・フォーレ——その比類のない、忘れがたい存在——からどれほど多くを学んだかについても伝えていくべきです。
フランス音楽界は、現在はフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルのこの三人のおかげで国際的な名声を誇っていますが、その評価がフランス国内で全員に受け入れられていたわけではありません。その典型例がモーリス・ラヴェルです。彼は、フランスで高く評価されていたローマ賞を5回挑戦しましたが、いずれも落選。さらに、1905年には最終選考への参加すら拒否されるという扱いを受けました。これは驚くべきことです。というのも、その時点ですでに彼は《亡き王女のためのパヴァーヌ》や魅力的な《弦楽四重奏曲》といった後に世界中で愛される作品をいくつも生み出していたからです。
しかし、結果としてこの出来事は、ラヴェルのその後のキャリアに良い影響を与えたともいえます。彼は名誉や地位といった外部からの評価に全く執着せず、それを生涯にわたり貫きました。ラヴェルは、自分自身の芸術家としての良心、そしてむしろ職人としての誇りこそが、自分にとって唯一の報酬であると考えていました。彼は終始、自身の技術を磨き続け、作曲技法をさらに豊かにし、常に新しい刺激を求めていました。そのインスピレーションの源は非常に多様で、ジュール・ルナールのウィットに富んだユーモア、ステファヌ・マラルメの透明で謎めいた暗闇、あるいはアロイジウス・ベルトランの細部まで緻密に描かれたロマン主義的世界観など、あらゆる芸術の中でも特に繊細で価値ある要素に向けられていました。
《夜のガスパール》は、ラヴェルに深いインスピレーションを与え、ピアノ作品の中でも屈指の驚異的な3曲を生み出しました。この作品には、気まぐれさや疾走感、幻想的で予測不可能な天才性、そして最も自由でありながら高度に知的な創作に見られる、どこか悪魔的な雰囲気が宿っています。それらすべての要素が彼を取り込み、私たちに永遠の感動を与えてくれます。しかし、第一次世界大戦が勃発し、志願兵として従軍したラヴェルは、こうした幻想的な創作の世界から引き離されました。
戦争が終わった後、ラヴェルは《クープランの墓》という見事な作品を携えて音楽に戻ります。この作品は、フランス古典音楽の伝統への敬意を示したものであり、同じように《ラ・ヴァルス》はウィーンのロマン主義へのオマージュ、さらにムソルグスキー作品のオーケストレーションは活気あふれるスラヴの天才を讃えたものです。
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リヨンス=ラ=フォレ、1922年
© Coll. Roland-Manuel/Diaph16-Benoît Musslin/
Les Amis de Maurice Ravel
ラヴェルはどんな音楽言語を選んでも、それをまったく新しい響きへと昇華させます。その響きには、決して揺るがない洗練された美的感覚、卓越した技術、そして圧倒的な権威が込められています。また、ラヴェルは色彩や異国情緒に強く惹かれていましたが、それらを扱う際には常に軽快で確かなイロニー(皮肉)を添えていました。たとえば、ヘブライの歌に込められた荒削りの情感を自分の音楽として取り込み、あるいは島々の歌に漂う郷愁を繊細に表現するなど、彼の作品にはこの独自の遊び心と感性が見事に反映されています。
ラヴェルが特に心惹かれたのはスペインでした。それは、ビゼーやドビュッシー以来、フランスの音楽家たちにとって特別な魅力を持つ国であり、ラヴェル自身もその影響を受けています。明快で引き締まったリズムへの深い愛情、そしておそらくピレネー地方に起源を持つ自身の出自が、彼をスペインの音楽や文化へと自然に導いたのでしょう。《スペインの時》のような作品や、その他多くの美しい楽曲を通じて、ラヴェルはフランス音楽の中に新たな要素を取り込みました。それは、「音楽の地中海」とも呼ばれる洗練された豊かさを指し、同じく純粋な知性と明確な構成を愛した別の芸術家が名付けたものです。この表現は、ラヴェルの作品が持つ鮮やかでエレガントな特質を的確に表しています。
最後に、この数々の素晴らしい作品の中で、おそらく最も純粋で、最も気高く、そして最も踊りの要素に満ちた作品を忘れるわけにはいきません。それは、ロシア・バレエ団の成功を飾った交響詩的バレエ《ダフニスとクロエ》です。この作品は、その高貴さと優雅さで際立っています。また、《子供と魔法》や《マ・メール・ロワ》、《ピアノ三重奏曲イ短調》といった作品も特筆に値します。そして、何よりも注目すべきは、ラヴェルの忍耐強く、常に新鮮な発想の証ともいえる《ピアノ協奏曲》や、《ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ》です。これらの作品は、彼の独創性と技術の頂点を示しており、彼の音楽が持つ多様性と豊かさを象徴しています。
ラヴェルのすべての作品には、音楽以外の何ものにも驚かされたり、だまされたりしないように警戒し続ける精神が表れています。彼は常に、自分が持っている力をしっかりとコントロールしていることを証明し続けているのです。その明晰で軽やかな力が、私たちに大きな安心感を与えてくれるのです。なぜなら、ラヴェルにはイロニーという武器があり、それはつまり、自己を知り、自己を支配しながら、同時に自分自身を楽しむことのできる知性を意味します。ラヴェルは、できることはすべて試し、できないことは、それが不可能だからではなく、人間的ではないから諦めます。これが、私が考えるフランスの天才に共通する最も深い特徴だと思います。
ここで私は、フランスの「明晰さ」や「バランスの取れた理性」、また「心と精神の対立」といった、学問的なテーマを取り上げるつもりはありません。ラヴェルの音楽が「知性的」と言われることについて言及するつもりです。しかし、フランスの天才が本質的に知的であっても、感情や情熱の深い部分を無視することはありません。ラヴェルにも感情や情熱はあります。ただし、ここで強調したいのは、ラヴェルをはじめとする私たちの偉大な芸術家たちにおいて、感情や情熱が決して自己中心的に自己を高めるために使われることはないということです。彼らは自分のために感情や情熱を利用しません。それらは常に芸術家が使う「言葉」や「表現」の中に組み込まれており、もし音楽家であれば、その感情や情熱も音楽そのものになります。
付言しますと、ラヴェルは自分をあまり真剣に受け止めない偉大なアーティストの一人だと思います。そして、私はラヴェルのファンたちに、この「自分を真剣に受け止めない」という姿勢こそが、知的な英雄主義の最も高い形だと理解してほしいと思っています。
ラヴェルのメッセージを考え、私たちの道徳的・芸術的伝統の中の偉人、例えばデカルトやル・ノートル、ラシーヌやヴォルテール、マリヴォーやスタンダールを思い起こすと、また今年の夏に訪れたフランス芸術の回顧展で、フーケ、ワトー、アンブール、セザンヌなどが一堂に会していたことを思い出します。これらの天才たちに共通するもの、そしてラヴェルの天才にとって最も重要だったものは何かを考えずにはいられません。私が考えるに、それは物事をどう考えるかという、非常に知的な方法、つまりたとえそれが非常に情熱的で痛ましいことであっても、それをあるスタイルの規範に従わせる方法であると気づくのです。
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ルヴュ・ミュジカル誌の記事冒頭ページ
フランスの文化においては、心の力、すなわち情熱や感情の力が欠けていることは決してありません。それらの力は従うことがありますが、決して卑しむことなく、誇りを持って従います。ここで従う力とは、私たちが思うような、強力で運命的、あるいは巨人のような大きな力ではありません。むしろ、それは非常に軽やかで、嵐のような激しい風ではなく、ただそっと通り過ぎる微かな風のような魅力であり、重くもなく、振り返ることなく静かに過ぎ去るものなのです。
ラヴェルは、音楽の領域、音楽という言語とその世界において、決してその世界を壊すことなく、またその枠を超えることなく、むしろその世界に存在するすべての資源を無限に、寛大で尽きることのない悪戯心を持って使い尽くし、自身の素晴らしい知性が成し遂げられることのできるすべてを示し続けました。彼の知性が表現できるすべてのことを。その過程で、暗く、痛みを伴い、情熱的なものといった側面を決して軽んじることはありませんでした。
また、彼は技巧のために技巧を重ねたり、見せかけのパフォーマンスをすることもありませんでした。ラヴェルの音楽の魔法は、単なる手品ではなく、ただ目を奪うためだけのものでもありません。それには決して乾いた冷たさはなく、その音楽が大げさな表現を避けているからといって、そこに偉大さが欠けているわけではありません。
ラヴェルの偉大さは、彼の知性が常に働き続け、物事を測り、探求し、指し示し、分析し、理解し、必要に応じて微笑むという絶え間ない精神的な働きから生まれています。この絶え間ない精神の動きこそが、彼の音楽における真の偉大さを作り上げているのです。
ラヴェルは知性がワルツやボレロのリズムを使って何を成し得るのか、そのすべてを私たちに見せてくれるのです。音楽とは、彼にとって犠牲者でも敵でもなく、むしろ親しい友であり、信頼できる伴侶です。音楽は、彼に自らの秘密をすべて打ち明け、その最も深い心の鼓動までも差し出してきました。そして今ここで、音楽はその最も繊細で高度な技術を駆使し、この驚異的な魔術師、そして知性において他に並ぶ者のない巨匠の望むすべてを実現しようとします。
この巨匠は、正確無比な指の動きによって、音楽というものの仕組みを余すところなく解き明かすことができます。そして同じ軽やかな身のこなしで、一度散り散りになった破片を再び拾い集め、それらを組み合わせて新たな音の生命体を創り上げます。その生命体は、質量と動きにおいて、まるで宇宙そのものの巨大な質量と果てしない運動をも巻き込むかのような感覚を私たちに与えてくれるのです。
すべてのものは、知性において平等であり、それに帰するものです。知性はこの世で最も強力な力ですが、その力がいかなる場合にも卑しめられることがないように、それ自身も決して他者を卑しめようとはしません。知性は常に純粋で、他者に媚びへつらうことも、疲弊することもありません。それは、障害をまるで些細なもののように扱い、遊ぶようにして次々と偉業を成し遂げていきます。知性は、無理に押し通そうともせず、その力を誇示したり見せびらかしたりすることもありません。冗談めかした態度で、まるで何も気にしていないかのような振る舞いをしながらも、それは私たちが思い描き得る中で最も完璧な「優雅さ」を体現しています。そして知性は、常にその本質を保ち続けます。それはつまり、人間を測るための尺度であり続けるということです。
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父・母・弟との家族墓
ルヴァロワ=ペレ墓地、パリ
©日本モーリス・ラヴェル友の会
この偉大な墓前に頭を垂れ、その傍らに集うご遺族やご友人の皆様に、フランス政府を代表して深い哀悼の意を捧げるとともに、私がここで何よりも表明したいのは、ラヴェルという天才が永遠に私たちにもたらしてくれる至高の恩恵への感謝です。それは、人間の知性が秘める素晴らしい可能性、確かな希望、そして計り知れないチャンスに気づかせてくれるということです。ラヴェルは私たちに、技術の巧みさを信じること、その技術を自分たちに与えられた素材に対して絶えず磨き続けることを教えてくれました。そしてまた、自分たちの限界を知ることがあっても、なお微笑みをたたえた信念を抱き続け、人間としての静かで揺るぎない誇りを持ち続けることを教えてくれるのです。
しかし、自分自身の限界を知るということは、なおも「知る」という行為であり、それ自体が知性を働かせることにほかなりません。そして、それによってまた一つ、新たに微笑む理由を見つけることにもつながります。それは依然として優美さと喜びの領域に属する行為なのです。この領域において、モーリス・ラヴェルは誰もが認める揺るぎない名手であり続けています。
今日のこの悲しみの日において、私たちがラヴェルの記憶に捧げることのできる最も価値ある敬意とは、彼の死に対して抗議すること、すなわち、彼の作品がこれからも未来の世代に向けて絶え間なく照らし続ける、あの慰めに満ちた光を見つめ続けること、と信じています。
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© Boris Lipnitzki / Roger-Viollet
*史実に基づき、原文から一部加筆修正を行いました。
注釈
このジャン・ゼィによる弔辞の演説は、極右勢力から激しい攻撃を受けました。その中には、明らかな反ユダヤ主義に基づく批判も含まれていました。例えば、このような記事が載りました。
「人民戦線政府、つまりショータン=ブルムとブルムが率いる内閣は、ラヴェルの墓にユダヤ人であるジャン・ゼィを派遣することで、大きな役目を果たしたつもりだった[...]。ゼィは、驚くほど無内容な追悼文をつっかえながら読み上げた。おそらく、この文章は夜遅くに秘書が急いで書き上げたもので、ゼィ自身は式典の前に一度も目を通していなかっただろう[...]。ゼィは典型的なユダヤ人であり、彼のような者が“我々の道徳的・芸術的伝統”について語るなど、信じがたい厚顔無恥である[...]」(リュシアン・レバテ、「モーリス・ラヴェルの棺」、Je suis partout紙、1938年1月7日付)。
また、別の記事にはこう記されています。
「問題は葬儀の簡素さでも、ジャン・ゼィによる平凡な追悼演説でもない。本当の問題は、この政府がフランスを代表する偉大な芸術家に対して示した軽蔑の態度だ。それは、この政府がフランスの真の、そして永続的な栄光を築いてきた人々の記憶を、どれほど無視しているかを明らかにするものである」(ルネ・ビゼ、「緊急事態としてのモーリス・ラヴェルの遺体」、Candide紙、1938年1月6日付)。
葬儀に出席しなかった音楽評論家ドミニク・ソルデ(L’Action française紙)も、これに同意し、次のように述べています。
「昨日まで、この葬儀がどのように行われたのか、そして、世界中で知られ賞賛される偉大な芸術家であり、フランスの純粋な芸術的伝統を特別に体現した人物に対して、人民戦線政府が示した恥ずべき怠慢について、我々は知らなかった」(L’Action française紙、1938年1月7日付)。
ジャン・ゼィはその後、1944年6月20日にフランス民兵隊によって殺害されました。その遺体は1946年9月22日にようやく発見され、1948年5月15日にオルレアンで埋葬されました。さらに2015年5月27日、彼の遺灰はパンテオンに移されました。
なお、フランスの協会、モーリス・ラヴェル友の会は、プラハで「モーリス・ラヴェルに関する友人たちの証言集」(Maurice Ravel par quelques-uns de ses familiers, Paris, Éditions du Tambourinaire, 1939)のジャン・ゼィが所有していた一冊を入手し、それをフランス国立図書館(BnF)の音楽部門に寄贈しました。この本には次のような感動的な献辞が記されています。
「ジャン・ゼィ氏へ。モーリス・ラヴェルの友人たちから多大な感謝を込めて。編集者ロジェ・ウィルドより」。
La Revue musicale, n°187, décembre 1938, p. 24-28
Rééditions annotées : Maurice Ravel, L’intégrale : correspondance (1895-1937), écrits et entretiens,
édition établie, présentée et annotée par Manuel Cornejo, Paris, Le Passeur Éditeur, 2018, p. 1683-1685