日記:(続き?)

自分は現状何者でもなく、何かを成し遂げられた存在でもない、そんな思いがここ最近の頭を支配している。その、「何か」を最近はずっと探っているような気がする。ひとまず今は、やってみたいことの中で一番、自分にとって身近だった言葉を使って雑多な文章を書いている。音楽も、絵も、あるいは別のなにかも作ってみたい気持ちはあったが、無からいきなり物事を始めることには多大な力がいる。不幸にも自分はその力を持たない人間なので、特に優れた言葉のつなげ方や、カッコイイ横文字、難しくてきれいな日本語を知っているわけでもなく、哲学、人文学などに深い造詣があるのでもないのに、楽だからという理由で日本語を書いている。束の間の細い満足を、どうにかして掬い取ろうとしている。幻想に少しでも自身を近づけようとしていると思いたがっている。

最近、とある事件(というほどでもないお茶の間お騒がせ案件)と関連して、「自分で考えて決断をしたり苦難を乗り越えたことのないような人間は、概して顔が幼い」というような言説を見かけた。論じられている対象に対する言葉としては、まぁ取り立てる価値もなく、一般論にしても、後付けの論理とルッキズムを多分に含んだ唾棄すべきようなものだが、どうも自分に対しては少し刺さるものがあった。果たして自分は、何か決断をして、苦難を乗り越えてきたことがあったのだろうか。しばらく考えてはいたものの、やはり何もないように感じられて、非常に不安である。

確かに、やってきたことは色々とあって、そこそこの成功に終わったものもあれば、ボロボロに失敗したものもある。成否は第一に求めるべきものであって、重要だ。しかしながら、自分がそこにどれだけの精神的な労力をつぎ込んだのかが今は問題であるように思う。自分の周りすら満足に見渡せないままに、面白そうな方向に向かってただ動いている。そこに自分の意志がどれほど介在するかはわからない、ただ、周囲の状況と傾向をみながら、なんとなく"良さそう" な方向に向かって歩く、自分はそれだけだった。

自分の本気というものがどこかに存在することを信じたがっているが、時にそれが疑わしくなる。今いる地点が自分の能力の限界点なのではないかと思うと、本当に恐ろしくなる。しかし、そうでないことを証明するために自分が今まで動いたことは、ほとんどないのかもしれない。

それもこれも、全て外からどう見えるかが問題なのではなく。自分がどう考えているのかに問題があるのだとは思う。何も成し遂げられていないし、何もできていない自分、それが精神の中に生きている限り、得体のしれない感情のような何かに苦しみ続けるのだろう。

苦しいなぁ、何かになれないかなぁ

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