お前が勝手にやってるんやろ
最近、YouTubeを見ていると、意識高そうな人たちのルーティン動画や密着動画のようなものが溢れているように思う。
というか、そのような動画が私のもとに流れてくるということは、私もその類か、その類に憧れを持っている者だと認定されているということで、非常に侵害なのだが。
まぁ、もちろん、自身の普段の生活や何かのゴールに向かうプロセスを全世界にさらけ出すことのメリットを理解していないわけではない。
実際、私も何か目標がある場合は、周りに大口を叩くことで、ミスったらとんでもなくみっともない状況を作るわけで、それは非常に効果的であろうと思う。
心理学的に見ても、誰かに監視されるというのは、行動制御において、非常に有効であるとされている。
イギリスのパノプティコンなんかはまさにその心理をうまく利用している。
さて、話を本題に戻すが、私が気になるところはそこではない。
それらの動画を覗いてみると、皆が「必死に命かけてやってます」みたいな感じをプンプンと出しながら、「頑張ってる自分どう?」みたいな感じすら感じ取られて、嫌な感じがする。
まぁ、私はかなり歪んだ見方をする方なので、彼らを非難したいわけではない。
また、もちろん「だったら見なければいいじゃないか」というご指摘はごもっともであり、私もそう思う。それらの動画を覗いてしまう自分のことも好きではない。
しかし、私はそれらの動画主に興味があるわけではなく、それを見ているときの私の感情や心の動きに関心があるので、それを理解するために見ているのだ、、、という感じで、私の行動を正当化しておこう。
そして、ここからが本題なのだが、それらの動画の「頑張ってます」「命懸けてます」感に対して、私は「いや、勝手にやって勝手に死にかけてるんやん」と思ってしまう。もしくは、「努力してるもくそもそのんでそうしてるんやん」と感じてしまう。
もう一度言っておく。これは私の歪んだ見方によるものである。
具体的な話は割愛するが、実は私もそれなりに波乱万丈な人生を過ごしてきている。ただ、波乱万丈ではありながら、かなり恵まれているとは思うが。
これは私が勝手に述べていることではなく、私のこれまでの話をすると、大体皆そう言うので、恐らくそうなんだろう。
そんな中で、私がやると決めたことに対しては当たり前のように時間と労力をつぎ込んでいる。今振り返ると確かにそうである。
しかし、それは当然のことであり、「頑張っている」とか「努力している」という言葉で片付けたくはない。逆に、努力なんかしていない。
なぜなら、私が勝手に決めて、勝手にやってることなんだから。私が諦めても、失敗しても誰も困らないし、誰に何の影響もない。
それはまるで、新しいゲームを買ってもらった子供のような状態であると考える。
新しいゲームをクリアするために徹夜して夜通しやったことを、「頑張った」「努力した」と褒めたたえてくれる人はいないだろう。
なぜなら、その子が勝手にやりたくてやってるんだから。
逆に、「今日の学校に支障出んようにしいや」と言われるくらいのものであろう。
意識高い系の人たちがしていることもそれと似ているような気がしている。
なんか、努力してます感出してはいるが、あなたが勝手に決めて、勝手にやってるんでしょ?って思っている。
だから、「努力家」とか「行動力がある」とか「ストイック」と言われることが本当に嫌いであり、それを言われて謙遜しながらも悦に入っている人には寒気がするようになってしまった。
例えば、毎日筋トレするとか、毎日読書するとか、早寝早起きとか、そんなものはある特定の人にとっては当然のことであり、それが努力でもすごいことでも何でもない。
もし、それができないのであれば、しなければいいだろう。しなくても誰も困らないのだから。
やりたいのであれば勝手にやるだろうし、それがないのならしたくないと決めつけて撤退する勇気も必要になるのではないかと考えている。
まぁ、とはいえ、人間は変わりたくない生き物であり、やりたいことに向けて動き出す力と、変わりたくない欲求の力が拮抗することもあるだろう。
私は、その時は大体やめるのだが、それを振り切れるものが見つかったときは、勝手に振り切っている者だと考える。
この世界は死にたくても死なせてくれないわけで、そんな無理に「良い」生活をしなくても生きていける。
しかし、それを良しとしないのが、我々の欲である。欲は時に非常に邪魔になり、私たちの人生を破壊する。
そうならないために、欲をかくべきではないだろうし、特に承認欲求なるものは厄介だと思っている。
もちろん全員が自己顕示欲の為にやっているとは思っていないし、公衆の面前に自分をさらけ出すことで自制しようというマゾヒスティックな手段として選ばれているのであれば、尊敬に値する。
しかし、ただ自分がやりたくてかってにやっているものをさらけ出して、あたかも苦難者の様に立ちふるまい、それを大勢で崇めるという、あの空間にはうんざりしている。
というわけで、私はもう見ないようにしよう。
最後にもう一度断っておこう。決して誰かを批判したいわけではないし、それで自分を奮い立たせることは素晴らしいことである。
ただ、私の歪んだフィルターを通して入ってくるその世界がどうしても気持ち悪いという話である。
海野華月