踊る阿呆になった日


わたしが盆踊りを取り憑かれたように踊り出したのは、今から5、6年ほど前になる。


自治会の地蔵盆の数日前に、「各組長さんはぜひ盆踊りの練習に来てください」とのお達しがきて、のこのこと自治会館へ顔を出したことがきっかけだ。

盆踊りといえば、じいさんばあさんが踊ってる炭坑節か東京音頭くらいのイメージで、大して興味もなかったのだが、祭りを盛り上げるためにここはひとつ、挑戦してみようではないかと軽い気持ちで参加した。保存会の方の踊りを見よう見まねで踊り、気づくと誰よりも真剣に楽しんでいたのである。

盆踊り、これはいい、と思った。誰でも踊れるし、輪になってひとつになるというのもいい。そして何より体を動かすと笑顔になり、元気なる。こんな陽気な風習を多くの日本人は忘れかけているとも思った。それは若い人たちが恥ずかしがって踊りたがらないということでもある。

ならば。率先して踊ろうではないか。当日の地蔵盆では一点の曇りもなく踊りきった。小学生たちは少しもじもじとしていたが、大人たちは楽しそうに踊っていて、それがまた良いバイブレーションを一帯に発していたのである。もっと踊りたいと思った。

毎年近所の長岡天満宮の夏祭りで、盆踊りがあるらしいとの情報を聞きつけ、息子を子守してもらうために義母にも来てもらい、万全な体制で祭りに挑んだのである。

まだ息子も手がかかる年頃で、着替えやお茶などをパンパンにリュックに詰め込んで背負い、ターバンを巻き、アフリカ柄のワンピースを着て、和風ではないがややお祭り感のあるめでたい佇まいで、盆踊りが始まるのを待った。

浴衣を着た人たちが次第に集まり、櫓の上には太鼓と唄い手さんがスタンバイし始め、いよいよという空気になる。いざ始まり、保存会の人たちの長岡京音頭を真似しながら踊る。これは楽しい。

楽曲は江州音頭に変わり、太鼓と唄が響き渡って、わたしは体の異変に気づいた。この江州音頭の唄、太鼓、リズムが踊りと一体となり、細胞という細胞がぷちぷちと音を立てて喜んでいるのがわかるのだ。

気づくと一心不乱に二時間ノンストップで踊り続けていたが、その感頭が空っぽになり、雑念という雑念が消え、時間軸もなくなり、自分が無になるような感覚があった。息子や義母の存在も完全に忘れ、遠くの方で「お母さん」と呼ばれてるような気がしないでもない。

喉の乾きで輪を離れ、息子と義母、夫と再会し、現実の世界に戻ってきたというわけだ。

あの無になるという感覚は一体なんだったのだろうか。首を捻る。

後日、パンパンのリュックを背負い、狂ったように踊っている姿を、保育所のママさんたちに多数目撃されていた。皆一様に「なんかすごかったので声をかけられなかった」と口を揃える。

そりゃあそうだろうな、と思う。ターバンを巻き、エスニックなワンピースを着て、三十半ばの女がトランス状態になっているのである。アフリカのどこかの村の儀式で呪いをかけられたか、変な薬をやっているとしか思えない光景だ。しかし周囲にどんな目で見られていようとも、わたしは踊りたかったのである。踊る阿呆になったのだ。

それから数ヶ月後、年配者多数の保存会の門を自らたたき、翌年の夏祭りでは、保存会の浴衣を着せてもらい、アフリカンなエスニックスタイルではなくなっていた。




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たみい
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