だらしのない人間
10代の頃から、わたしはだらしのない人間だ。
例えばリュックのファスナーを開けっ放しのまま街を呑気な顔して歩き、通りすがりの人から「お姉ちゃん、ファスナー!ファスナー開いてるで!」と教えてもらったことは数知れず。
40代に突入した現在でも、やはりリュックのファスナー全開のままで、ラグビースクール仲間の保護者のママさんに、「ファスナー全開になってる!」と教えてもらったばかりである。
物もたくさん落とすので、「すみません、これ落とされましたよ」と瞬時に届けてもらうことも数知れない。
人間のだらしなさは変わることがないのだと情けなく思うのと同時に、だらしなさだだ漏れで生きていると、必ず通りすがりの誰かの親切心に触れることも多いのである。
おっちゃんやおばちゃん、お兄さんやお姉さん、名前も知らない街の誰かがだらしのないわたしに「仕様がない人だ」と声をかけてくる。
20代の頃、木屋町通りで酔って吐きそうにしていると、風俗のキャッチのおっさんがすーっと寄ってきて、「お姉ちゃん、こんな道端で吐かれちゃ困る!ささ、こっちへ」と高瀬川へ誘導してくれたこともある。
森鴎外の『高瀬舟』の舞台にもなっている高瀬川で、わたしのだらしのない嘔吐物はするすると流れていったのである。
だらしがなくても声をかけられることはしょっちゅうあって、ベビーカーを押して電車を降りる際、大概のお母さんはエレベーターの場所を探すのだが、ある日下車した瞬間に、見たこともない誰かがふっと現れ「エレベーターですね、あっちの方ですよ」と、方向を指し示してくれるのだ。駅員でもなんでもない、通りすがりの人である。
エレベーターがない駅で、3、4人のおばちゃんたちに、ベビーカーをそのまま神輿のようにわっしょい担いでもらったこともある。なんだかおばちゃんたちの異様な盛り上がりに周囲も沸いていた。
大きなバックパックを背負ってる外国人にも、立命館大学のガタイの良いお兄ちゃんにも、困っているとたくさん助けてもらったのである。
わたしは度々出会う、さらっと通りすがって親切な人のことを、「神さま」と呼んでいる。
本能的に人間に備わっている「困っている人を助けたい」というスイッチは誰もが持っているとは思うが、全員発動はさせていない。見て見ぬ振りする人もいるし、そもそも街行く他人のことなんて見ていない人も多数だ。
そうやってたくさんの人とすれ違い、その一瞬での出会いというものもあり、その確率を考えたら奇跡としか言いようがない。
最後に目に見えないものに助けられた出来事も書いておこう。
一人暮らしのアパートの階段から急いで降りていた際、足を踏み外して結構な高さから落ちたことがある。「あ、もうダメや」思ったその瞬間体がふわっと浮いて、気づくと、100メートルのクラウチングスタートのような格好で着地していたのである。運動神経はまったくないし、その時履いていたのは不安定なヒールのサンダルであったのに、だ。
落下した高さ(5〜6メートル)と、不安定なヒール、そしてクラウチングスタートでの着地。無傷。
どう考えても不可解で謎だらけな出来事であった。
わたしのだらしのない人生は通りすがりの親切な誰かと、目に見えない何かによってずいぶん助けられてきたのである。