「虹を指し示している指」が詩だとりんさんが教えてくれた。
インプットを意識して焦るあまり本の積読がひどかった時期がある。
広い部屋でもないしそれでなくても本が多いのでどうしたものかと策を練った。私の場合「図書館で借りる」も合わなかった。返却日に読まずに返すだけということを繰り返しただけで定期的な本棚の見直しを心がけよう。そう努めるようになった。
それでも、やはり本が増える。増えていくのに読めてない。徐々に電子書籍に移行とは思っているもののやっぱり本をめくる感触が捨てがたかったりでうまくシフトチェンジが出来ない。思い切って数年前から
・ひと月に買う本は一冊。
と決めた。
これが私に合っていた。衝動買いが減り吟味するようになった。なにより、積読が激減した。一巻で終わらない物語でもひと月一冊なので大切に読むようになった。
思いがけぬ副産物があった。
積読本の散乱が減ると一冊一冊の本に対しての愛着も深まる気がする。
そんな愛着本たちのなかに
「生涯本棚にある殿堂入り本」と決めた本たちがある。その一冊は石垣りんさんの詩集だ。あまりにも昔から当然のようにメインステージにいるけれど最近はうっかり開いていなかった現代詩文庫の「石垣りん詩集」をひさしぶりに開いてみた。
※━職場グループ等で詩を勉強している、初歩の人たちだけが読んでください。それ以外の人にきかれると、私言いにくいんです。仲間の中の少し古い経験者として話をしたいのです。
そういう人たちのものを読んでいつも感じるのは、詩は詩的なものを書くものだ、と思っているらしいこと。たとえば詩をみて虹を感じた、とします。詩は虹のように美しい、さて私も詩を書こう、詩は虹を書くことだ、と考えてしまう。どうもそうではないらしいのです。虹を書くのは大変です。虹をさし示している指、どうやらそれが詩であるらしいということ。
『現代詩文庫 46 石垣りん特集』(思潮社)
りんさんは断定することなくこの後に「間違っているかもしれません」と付加えている。そしてこの2年後、これぞ現代詩!といわれるような犬塚尭氏とならんで「生活詩」と少し低い位置づけで語られていたような彼女の詩集がH氏賞を受賞することになる。それが私がりんさんの最高峰の詩だと思っている「表札」が入った「表札など」という詩集だ。
別に賞をとった詩集だから素晴らしいとは思わないがその功績で50年以上経過した今も詩集を手に取ることがたやすく「現代詩文庫 NO.46」として特集されていることもあるのだと思う。ありがたい。
思い切って月に一冊と決めることで今所持している本たちがくっきりと際立つことがある。
思い出したように詩集を手にとっては「詩的な言葉」や「虹そのものの美しさ」でなく「虹を指し示す指」を凝視しようとしたりんさんの言葉を反芻している。