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雨になって消えてなくなれ

 なんでこんなことになってるんだろう、と、寝ぼけ眼ながらも、わたしは自分が揺れていることと、車の助手席にいることを認識した。ぼんやりとした意識を結びあわせようとする途中に、あ、と思わず声が出てしまって、隣の運転席でハンドルを操作していた間宮くんがわたしの目が覚めたことに気づき、「あ、佐伯さん、ようやく起きました?」とわたしに問うた。程よく感じる車の振動のせいか、もしくは隣でハンドルを握る間宮くん匂いのせいか、まだ意識が正常に働いていないような気がする。薄ぼんやりする頭で考えてみても、なぜわたしがこんなことに、間宮くんの運転する車の助手席にいるのかがまったく思い出せない。かろうじて、上司がわたしに呑ませたマティーニの苦味が口に蘇るくらいだ。「佐伯さん、牧野さんになんか呑まされたあとからずっと牧野さんを膝枕にしたまま起きなかったんですよ」間宮くんはそう言いながらハンドルを右に半転させる。車体がかすかに右側に傾き、わたしもそれに倣った。ぱしゃ、と水溜りを横切る音がかすかに聞こえた。

「えっ…ぜんぜん記憶にない、ごめん、うわあ、送ってもらうとか、ほんとごめんなさい」
「いや、大丈夫ですよ、おれが呑んでなくて良かったっすね」

 佐伯さん、水いります?、と間宮くんは続けて、そういえばと喉の渇きを認識したわたしは、彼の言葉に甘えることにした。何から何まですんません、と謝るわたしに、寝て潰れるくらいなら粗相にならないんで大丈夫っすよ、と、酒気を帯びてないまっさらな声で言う。おそらくわたしの家へ向かってくれているであろう道のりは暗く、街灯か、行き交う車のヘッドライトくらいしか灯りが動かない。先程まで雨が降っていたのか、道路はやや少し濡れている。車内のカーナビに目を向けると、右上の端のデジタル時計がもうすぐ今日を終えようとしていた。ほどなくしてコンビニに着き、間宮くんは車を停車させて、「ちょっと待っててください」とシートベルト外した。がたん、とドアが閉まる音が、やけに重たく聞こえ、徐々に意識が研ぎ澄まされていくような感覚に陥る。
 間宮くんは、一年程前にわたしの勤め先にアルバイトで入社した三歳下の大学生で、先程まで執り行われていた職場の送別会に一緒に出席していた。ふたつ並んだテーブルの端と端にいたわたしと間宮くんは一次会で会話をすることはなく、まだ意識のあったわたしと、上司と同僚の何人かが残った二次会にも参加した。今回の送別会の主役で、来月から別店舗に異動になる上司の牧野さんとは、仲良くさせてもらっていたのもあって寂しくなり、普段よりお酒も進んだ。牧野さんたちといつ別れたのかまでは、まだ思い出せない。少人数の参加となった二次会では、お酒が入っていないと話せないような浮いた話で盛り上がり、その話題の発端は、二ヶ月ほど前にできたという間宮くんの恋人の話だった。
 三月の終わり頃、わたしは間宮くんと桜を見に行った。彼とは、新歓の集まりの日から、お互いにそれなりにお酒が呑めることもあり、ふたりで呑みに行ったり連絡を取り合うことが多かった。その日は、わたしが残業で退勤が遅かった時に、「暇なら夜にドライブでもしません?」と、冗談半分でメッセージを送ったのがきっかけだった。十分も経たないうちに、既読が付き、「いいですよ」、「迎えいきますね」の文字を確認する頃には、わたしは無意識に口紅を直していた。
 がたん、とドアの開く音が聞こえ、わたしの意識は唐突に引き戻された。おかえりなさい、と咄嗟に出てきた言葉が正しかったかは判らなかった。三三〇ミリリットルほどの小ぶりなペットボトルを見せながら、なんかちっちゃいのしかなかったっすわ、とぼやきながら間宮くんが車に乗り込んだ。重みで少し揺れる車体、同時に、間宮くんの匂いがふわっと揺れた。甘い、柔軟剤のような、育ちの良さそうな匂い。ミネラルウォーターのペットボトルと缶コーヒーをフロントのドリンクホルダーに差して、彼はふう、と息を吐いた。職場で擦れちがう時、隣にいる空間、冬の終わりに呑みに行った日の帰り道で彼から借りた上着に染みついていた、間宮くんそのもののこの匂いが、わたしはすごく好きだった。先の二次会で彼の隣に座っていた同僚の河野さんが「間宮くんすっごい好い匂いする〜」と、彼に擦り寄っていたのを思い出す。そんなふうに思っていることを本人に伝えるなんて、わたしには到底できなかった。

「…飲まないんすか」
「へ?」
「水、ぬるくなっちゃいますよ」
「あ、ありがとう」
「いいえ」

 間宮くんはそう言って缶コーヒー手にし、所在なげにプルトップを開ける。二回ほど喉を鳴らしたあと、また、ふぅ、と息を吐いた。
 わたしも同じようにペットボトルの蓋を開けて二口飲み込んだ。アルコールで渇いていた身体に、それが染み込んでいく感覚がやけに過敏だった。桜を見に行った日の光景が、なぜだか鮮明になっていく。あの日も、行きがけに寄ったコンビニで間宮くんは缶コーヒーを、その時わたしは紅茶ラテを買い、コーヒー飲めるなんて歳上のわたしより大人みたいですね、とわたしは笑った。間宮くんはいままで見たことのない顔で、「佐伯さんのほうが、ずっと大人ですよ」と言った。まだ春は眠っている三月。わたしはカーディガンの裾を伸ばして、間宮くんはチノパンのポケットに手を突っ込んだ。夜桜の名所の公園は、深夜だったため照明もなく、わたしたちは夜道にうっすらと浮かぶ淡墨を辿った。
 コーヒーの苦い香りが、間宮くんの匂いを搔き消していきそうで、わたしは静かに深呼吸をして間宮くんの匂いを探す。こんなことをするのは、こんなことを考えているのは、きっとたぶんわたしだけで、車内には曖昧な沈黙が続いて、それでも、間宮くんは缶コーヒーを手にしたまま、ハンドルを握ろうとしない。
 間宮くんに恋人ができたことを知ったのは、二週間前、休憩室で河野さんと昼食をとっていた時だった。何の気なしに話題の中心は恋愛話になり、間宮くんも今は浮かれてるだろうね、と、河野さんが零した言葉にわたしははっとした。同じ大学のサークルの、ひとつ歳下の後輩の彼女に、間宮くんから告白した。そうぺらぺらと喋る河野さんの言葉は、わたしには聴解できない機械語のように思えた。わたしは箸を落としそうになるのを必死で堪え、動揺を悟られないようになるべく平然と「へえ、そうだったんですねぇ」と応えた。大学を卒業していないわたしは、同世代の言うサークルやゼミなどという単語の意味をあまり理解していなかった。まあきっと、よくある話なのだ、と飲み込んだ。そう言われてみると、もともと連絡不精ではあったけれど、レスポンスは遅くてもこまめに連絡を取り合っていたのに、間宮くんがその恋人と付き合い始めたであろう頃から、メッセージの更新が途絶えた。ふたりで桜を見に行ってからしばらくして、わたしは間宮くんとの、友人ともそれ以上ともいえぬ微妙な関係性に悩みにも似た感情を覚えていた。連絡はローテンポで続くものの、相手からの誘いやわかりやすいアクションはなかった。そうして月日が流れて、酔いのなかで彼の車の助手席に座る現状に至る。わたしは、臆病だったのだろうか。名前のない関係性から、踏み出したかったのだろうか。自分が歳上だから、職場の先輩だから、理由をつけて大人ぶりたかったのかもしれない。

 「行かないの?」と、わたしはたいして意味を持たない問いを投げかける。だれに向けているわけでもない。そして、意味などない。なぜなら、このまま時間が停まってしまえばいいと思っているからだ。ああ、と、間宮くんは思い出したかのように、おそらく飲み切ったであろうコーヒーの缶をぐしゃりと潰す。はじめて見る動作だ。

「佐伯さん」

 持て余すかのように、間宮くんはぐしゃぐしゃになった缶を触りながらわたしの名前を呼んだ。ぺきっと音を立て、潰れた空の缶が、間宮くんの手のよって元々あった場所に戻される。結露し始めたミネラルウォーターのペットボトルの横に、不格好なそれが並んだ。

「なに」
「……」
「………どうしたの」

 返事をした、その一瞬に、ふわっと、間宮くんの匂いが揺れ、すぐ傍まで近づいた。突然のことに、何が起こったのかすぐには把握できなかった。ただ、右手があついのは、彼に手を握られているからだと知る。振りほどけばすぐに離れていってしまうような弱々しい力で、間宮くんはわたしを引き寄せた。あ、と思った。あの匂いが、間近になる。桜の色をした肌寒さを思い出す。コンビニの煌々とした照明が、暗い車内で向かい合う間宮くんの顔の輪郭をかろうじて映し出し、間宮くんの顔をこんなにも間近で見るのははじめてだな、とぼんやり考える。そして、このひとの恋人は、なんのしがらみもなく、なんの怖さもなく、このひとのこんな顔を見ているのだな、と。こんなときなのに、思考能力はほどほどに冷静で、そんな自分に笑いそうになった。

「嫌なら、振りほどけばいいんですよ」
「……嫌なら、目が覚めた時点で車から降りてるよ」
「………佐伯さんは」
「なに」
「……おれのこと…」

 探していた匂いが、すぐ傍まであって、わたしは、間宮くんの瞳のきらめきがわかるほどの距離感に、どうしたらいいのか判らなくなる。ああ、まだ、わたしは酔いが覚めない。酔わされているのだ。まっさらな彼に、わたしじゃない恋人がいる彼に、それなのに、こんなふうに触れてくる彼に、どうしてか焦がれてしまっているのだ。わたしは握られた右手をゆっくりとほどき、まだ熱の残る手で間宮くんの顔に手を伸ばした。頬に触れたわたしの指先が、冷たく思われないかと一瞬だけ思慮した。車の窓の外で、雨粒がひとつ落ちた。間宮くんははっとしたような顔をして目を逸らし、それからまたすぐにわたしと視線を合わせた。間宮くんの匂いの濃度が増して、わたしは間宮くんの声に応えないまま、先程よりもずっと顔を近づけて、それから目を閉じた。彼の気配に近づく。間宮くんの唇は、想像していたよりかは柔らかく、コーヒーの苦みが鼻を抜けたら、間宮くんの匂いが甘い。会ったこともない間宮くんの恋人の存在が、ふと脳裏にちらついた。顔の火照りも、指先の震えも、アルコールが抜けていないからではない。こんなにも胸が騒ぐのは、目の前にいるこのひとが間宮くんだからなのだと、わたしはなぜはやく認識しなかったのだろう。ほんとうは、桜を見に行ったあの日に、こうしたかったのかもしれない。
 唇が離れたその瞬間、目を開けると、間宮くんは何か言いたげな顔をしていた。彼ももしかしたら、わたしと同じ気持ちでいるのだろうか、と、少しだけ自惚れた。そう、自惚れだ、と再度言い聞かせた。
 ーーー佐伯さんのほうが、ずっと大人ですよ。
 間宮くんも、あの時と同じ顔をしていたような気がした。
 思ってもいないことを言うのは簡単だ。わたしには、真実を伝えることのほうが、裸を見せることよりもずっと難しい。明日からのわたしは、間宮くんの先輩であるいつも通りの「佐伯さん」でいられるはずで、間宮くんも、普段と変わらないであってほしい。大学生の軽いからかいのひとつとして、よくある話なのだ。きっと、それでいいのだ、と思う。ふたりきりなのも酔いのせいにして、このキスだけはなかったことにして、夜の桜の淡さなんて忘れて、時が経ち、今日この日のことを笑い話にできるような日が来るまでは、ずるいままでいさせてほしい。それが、わたしの精一杯の意地なのだった。
 間宮くんはわたしの名前を呼ぼうとしたのか、息を呑み、稍あって口を噤んだ。彼がその続きに何を言いたかったのかは、今もこれからも判らないままでいいのだ。間宮くんの匂いが、境界線を失くすように曖昧になっていく。わたしは、近づきすぎた身体を離し、シートに正しく座り直した。いつの間にか再び降り出していた雨の音が、車内の沈黙を破りつづけて、わたしは、だれにも聞こえないように呟いた。

「ごめんね」

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