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美しい世界

彼女の鼓動がいつも以上に高鳴っているのを感じ、おれは早くもまた、自分のなかの欲望で以って、彼女を搦めとりたい衝動に襲われた。甘やかに、欲を言えばめちゃめちゃに、自分のなかの憐れで、卑しい感情を曝け出したくなった。ベッドの上の湿った気配が、先程の彼女の乱れたさまを思い出させる。裸の素肌だけで、おれたちは薄っぺらい毛布のなかでいまだに重なりあって、おれの上で揺蕩っているままの彼女の呼吸が、浅い。また、高鳴る。濡れたシーツは本来ならば心地悪いはずなのに、それよりも彼女と繋がっている熱さの方が嬉しい。汗が引く途中に、身体が冷えないようにとかけた毛布が擽ったい。「………あつい」と、毛布のなかでこもる彼女の声は、少し嗄れていた。
繋がったままこうしているのが、おれは密かに好きだったりする。荒く乱れた呼吸が徐々に穏やかさを取り戻し、秘密めいた空間に馴染んでいく。唯一、この世界にたったふたりしかいなくなったような気がして、どうしようもなく愛おしくなるのだ。自分と同じような呼吸が、こんなに近くで聴こえることに安堵し、それと同時に、またこの呼吸を乱したいとも思う。
彼女の声は普段、とても理性的だ。落ち着き払った声音が、おれに抱かれているときだけは乱れ、そしてみだらになってしまうのが、たまらなく劣情を煽った。動くたびに揺れる彼女の甘い悲鳴を誰にも聴かせたくなくて、おれはいつもその口を塞ぎ、閉じ込められるわけでもないのにそのくちびるをきつく吸い上げる。途切れ途切れに名前を呼ぶ。嬌声に交じって、彼女が上擦った声でおれの名前を呼ぶ。ぎこちなく前後に動く彼女の腰、太腿の裏の白さ、柔らかく揺れ動く髪の先、すべてが月明かりに照らされているかのように美しかった。譫言のように繰り出される名前。無意識に放たれる愛の言葉が、素面ではどれだけ陳腐に思えても、裸になった女と男の最中ではなによりも切実だった。
静けさが支配しようとしていた空間に、ねえ、と、嗄れたままの声がふと落とされ、おれは微睡みのような記憶から引き戻された。少し下から顔を覗き込まれるような体勢に、ああこれは、微睡みのつづきだったと知る。包まった毛布のなかで、同じ目線になるように彼女を抱き上げた。裸の素肌は隙間なく密着しているのに、互いの鼻先は触れそうで触れない。まだすこし紅潮が残る頬を、思わず撫でた。彼女は目尻を細めて微笑う。そこはかとないあどけなさと、垣間見える色気の深淵さに、自分はもう既に溺れているのだと気づく。「…どうした?」と問うおれの声も、同じように嗄れていた。
「いつも、してるとき、わたしの名前をよんでくれるの」
「うん」
「……あれ、けっこう好き」
ふっ、と照れた少女のような表情とは裏腹に、貫いたままの彼女の潤んだ感触が、熱を帯びたのが判った。穏やかになりかけていた鼓動が、また、高鳴る。なにか言いたげな彼女のくちびるが、恭しくおれのそれに近づいて、そして触れた。もどかしさを超えて、おれは一瞬だけ離れた彼女のくちびるをまた捕まえる。捕まえて、離れないように、舌先を探る。あつい。輪郭をたしかめるように、彼女の背中を指でなぞり、細い腰が慄えた途端、果実がはじけたように熟されていく。脈を打ち出した欲望が、性急に、欲する。熟した結び目があつい。あつい。彼女と、おれの、すべてが。
今夜が最後ではないのに、どうしてこんなにも求めてしまうのだろう。呼吸をするのと同じように、抱きしめて素肌を撫で、何度こうして名前を呼び合えるのだろう。一瞬でも手放すのが惜しくて、なくならないようにどの感触も刻みつけたい。触れていたい。本当に焦がれているのはおれだ。憐れで、卑しい、微睡みのつづき。
律動はゆるやかに、そしてだんだんと激しさを増し、彼女とおれの結び目を曖昧にさせる。溶けるほどに熱い、彼女の欲に搦めとられていた。
「もう、朝に、なっちゃうよ」
くちびるが触れたまま、また名前を呼ぶ。嗄れていた彼女の声がまた上擦って、肌と肌が、ふたたび湿っていく。好きだというなら、何度でも、いつまでもそうしていたくて、おれは囁く。おれたちはまだ、深い微睡みのなかにいた。

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