Peter Pan Syndrome-諫早勾留記249-
親の前では子供以外の何者にもなれない。
大人になっても。
いつまで経っても私たちには子供に戻る瞬間がある。
心や身体が大きくなったとしても超えることができないもの。
大人なのに精神的に大人になれない、成長することを拒む男性のことを「ピーターパン症候群」だなんて言うらしい。
そして若いときはこのピーターパン症候群について歌いがちである。
〜・〜・〜
私たちは私たちが作ったルールの中でしか物事を測ることができない。そのルールの中で良しとされる範囲から外れてしまったものは異端者、おかしいもの、頭がおかしい人、いじめの対象、排除の対象。ピーターパンもその1つの例に過ぎないのである。
兎にも角にも私たちは自分の理解できないものを遠ざけてしまう傾向にある。それは人間だけではなく、新しいサービスやコンテンツ、技術、商品、様々だ。
iPhoneが初めてやってきた時に皆は手に取っただろうか。少なからず私の周りはクラスに1人持っていれば多い方。ガラケー全盛期、出席番号1番の彼女だけがiPhoneだった。
結局新しいもの好きの人間から手に取る。その周囲の人間がまた手に取り、マジョリティがそっちに移り、どうしようもなく移り変わる人間がいて。
そして古きものは廃れていく。
〜・〜・〜
新しいものや新しい場所に飛び込んでいく人間がいないと世界は動かない。それを自分でやりたいと思うか、人がやってくれると思うかはその人の自由。そして前者は前者同士、後者は後者同士でしか分かち合うことはない。
新しい世界に飛び込んでいくためにはやはり生きた知識が必要である。知識量は自分の世界の広さ、広ければ広いほど次の点は打ちやすい。
私はもっとわたしのせかいを広げていきたい。
それが生きている1番の目的。
だから日々学ぶ、考える、吐き出す。
私にとってはそれが生きることなのだと。
〜・〜・〜
わたしのせかいが広がるにつれて他人との同調を好まなくなった。
大人に評価されることを嫌うようになった。
周りの大人にキミはすごいね、えらいねと褒められるたびに、褒められない道を進んだ方が良かったのかもしれないとか、そういうことを思ってしまう。
もちろん、この人に褒められたら嬉しいというような感覚はあるし、このだらだらと書き続けるテキストに貼り付けられるハートマークもやっぱり嬉しい。
ただ私に対して周りの大人が行う褒めるという行為はどうも、キミは別の世界の人、キミとは歩いていけないよ、というある種の距離を感じるのである。
1人の人間として見られていないかのような、そういう気分になる。
だから人付き合いはどんどん嫌になっていく。
〜・〜・〜
評価をする大人、評価をされる子供。
確固たる自分の世界が美しい未開の森に色を加える。
その色付けが私たち子供を大人にしていく。
わたしのせかいが他人事のすごいねで侵食される。
キミの世界は理解ができないものというレッテルが貼られる。
そしてそのレッテルが崩していくものがある。
大人になるのか、子供のままでいるのか。
決めるのはキミ次第だよって。
ピーターパンシンドロームの私。
私のことを一番知っている2人は私がやりたいようにやればいい、帰りたくなったら帰ってくればいい、そんな風に背中を押してくれる。
そうか、わたしのせかいの最大の理解者はいつでもここにいるんだった。
迷った時にはここに帰ってくればいい。
10年前、1枚の紙に書いた文字、確かに自分で選んだ道。
当時何を感じて何を考えたかはこの場所が、この街が教えてくれる。
もう昇ることのない母校の灰被りの階段は相変わらずそこにあった。
私たちが歩み始めた道、その始まりはいつまでも。
たとえいくつになっても。
また明日。
最終電車を見送り
僕は一人で風になろう
たとえいくつになっても
ここから旅立ってゆくんだ
ピーターパン・シンドローム / Sound Schedule
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