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しょっぱくて、意外と癖になる 2杯目
「いらっしゃいませ! あ、ユミさんいらっしゃい、今日はもうお店終わったんですか?」
「うん、今日全然客来んかったけん、早めに閉めたっちゃん。とりあえずビールばもらえる?」
「豚骨ラーメン 彦一」がある商店街は近くに高校や大学がある学生街で、割安な居酒屋が所狭しと並んでいる。チェーン展開している居酒屋が立ち並ぶ通りは、サークルなどで利用する大学生達や、仕事帰りのサラリーマンを呼び込もうとする、メニューを持った店員などで賑わっている。だがその通りを一本曲がると、一気にのんびりとした雰囲気を醸し出す。
ユミさんは、そんなのんびりした雰囲気の通りに大人な呑み屋を出している女性だ。八人も入れば一杯になる大きさのこじんまりした店で、学生と主婦のバイトを週二の割合で雇っている。客がいないときは殆ど一人で店にいるので寂しいらしく、店を閉めるとやってくる。
彼女は三十前半の目鼻立ちのはっきりした美人だ。華やかで一見話しかけづらい雰囲気と、商店街の八百屋のおばちゃん並の気さくな中身のギャップが癖になるファンは多いようだ。
以前は、たまに来てはビールと餃子を頼み、壁の一点をじっと見つめながら一人黙って呑んでいたものだ。だが富山が入って以来、来店頻度は増え、シフトに入っているときは人が変わったように二人で喋っている。
「でね、トンちゃん。世の独身女性の為に立ち上がろうと思うっちゃん。私、政治家になるけん!」
「んん? どうしましたユミさん。唐突ですね」
追加注文の餃子を運んできた富山に、突然宣言した。
彼女はいつも一人で来店するのだが、靴を脱ぎたいからという理由でカウンターではなく、座敷に座る。四人用の席なので客の入りによってはカウンターを案内することもあるが、二つある座敷の入り口に近い方は殆ど彼女の定席となっている。
「アイデアがあるとよ。女性の為になるアイデアが。・・・聞きたか?」
少し頬に赤味がさしてきた彼女はにっこり笑い、富山に囁く。酒の肴の餃子を今しがた持ってきたのに、彼女の手元にある瓶ビールは空きそうになっていた。
「あんね、婚姻届を出すときにね、指輪のように指をぐるりと囲む刺青を左の薬指に彫るったい。そしたらね、もう結婚しとうのにしてない、なんて嘘がつけんくなると。どげん? よかろ?」
「えー? どうしてわざわざ刺青するんですか? そんな痛い思いしなくても、結婚指輪があるじゃないですか」
富山が何の気なしに答えると、彼女はドンと机を叩き、
「甘か!・・・ああ、そうやんね。トンちゃんはまだ若かもんね、ぴっちぴちやもんね。いや、よか。ごめん、忘れて。酔っ払いの戯言やったわ」
「ええ? なんでですか? 年なんか関係なかですよー、気になるじゃないですか」
「いや、よかって。若い子に言う話じゃなかった。わかってもらえる気もせんし・・・」
「そんなあ。だってユミさん・・・」
「富山。いつまでくだらない話をしている。器を洗え」
抑揚のない声に刺された富山は、その声の方には顔を向けずに、
「はいっ! すいません!」
と踵を返し、彼女に小声で「すいません」と声を掛け、厨房に戻っていった。
抑揚のない声の出所の野口と目が合ったユミさんは、右手をそっと顔の前に上げ、気遣いに対する謝意を示す仕草をしたが、彼はそれを無視した。その態度に憤慨した彼女だったが、溜息をつくと視線を落とし、出来立ての餃子をポン酢につけて一気に口に運んだ。
彼女はハフハフと食べながら瓶に残ったビールをグラスに全て注ぐと、これまた一気に飲み干した。
「修ちゃん、相変わらず美味しか餃子ね。やっぱビールに一番合うのは餃子よねぇ」
「へへ、そんなに褒めてくれるんなら、家まで作りにいっちゃおうかなっ」
ここでは彼女にのみ“修ちゃん”と呼ばれているオーナーは、にやにやしながらチャーハンの鍋を振っている。彼の視線はチャーハンに向けられたままなので、彼女の表情が暗くなったのには気づかなかった。
「よし、もう一本ビール頂戴」
彼女は気を取り直したように、明るい声で注文した。
「あっ、はーい!」
富山がそれに応じようとしたが、野口がそれを制する。
「器を洗えと言っただろうが」
野口は伝票を持っていくと、ユミさんにそれを放り投げた。
「もう帰った方がいいんじゃないですか。もう三時ですよ。餃子食べ終わったら帰ってください」
「突然なんね、私はまだ酔っとらんよ!」
「では、宜しくお願いします」
彼女の抗議の声をぶっつりと無視をし、野口は仕事へ戻った。
「おーい、おい。なんで帰しちゃうの? まだ元気そうじゃん」
オーナーも怪訝な声を出したが、それもあっさり無視をした。オーナーはまだチャーハンの米粒を真剣に見ながらの会話だった為、返事がないのを確認するとまた黄金炒飯の作成に戻った。
ユミさんは食べ終わると、ぶすくれながら、ぼそりと言った。
「・・・お勘定」
「政治家になるんでしょ? 俺は、刺青はアリだと思いますよ」
突然話しかけられて、ユミさんは動揺した。
「な、何ね。あんたもピッチピチやろ? 適当に合わせんでよっ」
「二十四だからピチピチじゃない。それに、俺は人に合わせない」
怜悧な目で見下ろしながら反論した野口は、おつりを取りにレジへと向かった。そのやりとりを聞いていたオーナーと富山は、うんうんと深く頷いている。
ユミさんは、なんだかぼうっとしていた。お酒もあるのだろうが、何よりここに通い始めてもうすぐ二年になるが、野口に注文以外で話しかけられたのは初めてだったのだ。
「三千二百五十円のおつりです」
いつもの無表情な顔に戻った野口から、おつりを受け取る。
「・・・ありがと。そうやね、本気で目指してみようかな。あんたも応援してくれとう訳やし」
ユミさんははにかんだ笑顔を見せた。
「・・・特に応援はしていません。アイデアがいいと言っただけです」
「なんね! 少しは人に合わせんね!」
履いたピンヒールをガツガツ言わせながら、ユミさんは憤慨して帰っていった。
「ほらあ、やっぱり元気じゃないか。なんで帰しちゃったんだ?」
出来立ての炒飯を運びながら、オーナーが呟いた。
<登場人物>
・野口良介 「彦一」のアルバイト、接客態度に問題あり
・富山瑞樹 「彦一」のアルバイト、豚骨ラーメンをこよなく愛する
・日向井修一 「彦一」オーナー、多趣味なテキトー人間
・ユミさん 「彦一」の常連、近くで呑み屋を営む