正岡子規「平気で生きる」とは
「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
ー正岡子規『病牀六尺』
プレジデントオンラインの記事は、正岡子規のこの言葉について、「子規はそう語り、どんなに苦しくても生きることによって楽しみを見出すことが大切だと説きます。子規にとっては、書くことが唯一の生きる証しであり、楽しみでもあったのでしょう」と締めくくっている。
仏教の悟りは難しい。なかなか経験することなどできないから、想像してみたり、考えてみたりするしかない。でも仏教でいう「平気で生きる」とは、「どんなに苦しくても生きることによって楽しみを見出すこと」なのだろうか。達磨大師はそう説いたのだろうか。お釈迦さまはそうやって生きたのだろうか。
子規は先ず、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで」と言っている。「平気で死ぬ」とはどういう悟りのイメージだったのだろうか。『納棺夫日記』を書かれた青木新門氏も子規の言葉を重視しているが、著書の中で「私もまた、禅宗などでいう悟りという境地は、如何なる場合でも平気で死ぬることだと解釈していた」とし、自身も間違っていたことを認めている。
新門氏は、その後出版した『それからの納棺夫日記』の中で、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節は死ぬるがよく候、是はこれ災難を逃げるる妙法にて候」と良寛が書いた手紙に触れ、その意味について「そうした事態に直面した時の僧侶としての覚悟を語っているのであって」としている。子規も、死に直面し、覚悟することを悟りだと思っていたのだろう。
そして新門氏は仏教の悟りについて、「もし生者がその真理を体得するなら、永遠の中の一瞬の人生が、どれほど大切で、どれほど尊いか実感する。と同時に、生かされていることが喜びとなって、如何なる場合でも平気で生きてゆくことができるようになる。そのことが、仏教のいう<悟り>なのだと思うようになった」としている。
「仏教はどんなことがあっても今を安心して生きることを重視する教えである」
「人生の最高の幸せは、生・老・病・死の全課程を安心して生きることだと思っている」
ー青木新門『それからの納棺夫日記』
自分も悟ったことなどないが、仏教の悟りとは、平気で死ぬことではなく、この世の四苦を平気で生きることではないかと思っている。その方がよほど難しい。子規はその真理に気づいたのだ。彼の言う「平気で生きる」とは、「どんな時でも安心して平気で生きる」という次元の気づきのことであって、「どんなに苦しくても生きることによって楽しみを見出すこと」というような、世俗的な次元のことではないのだろうと思う。
この真理を我々一般人が理解することは難しい。気づくことができた子規は最期にある種の境地に辿り着くことができたのだろう。それだけでもすごいことだが、その真理を生きるのは完全に悟りを開いた人にしかできない。
「私は子規が真実に気づいたが真実を生きたわけではないと思っている。気づきで終わっている」
「三十五歳の時、菩提樹の下で最初の悟りを得て、その後八十歳で修行完成者となるまでの四十五年間、(中略)一修行者として歩み続けられたのである」
「私はブッダの偉大さはここにあると思っている」
ー青木新門『それからの納棺夫日記』