自分という人 他人という人
下は以前書いたnoteです。起きていることは移り変わっていくだけで「私の人生」という集積は、何処にも実際は存在していないのだ、という気づきについて書きました。今回はそのように移り変わるものの中に、いつも同じ「私」という人、そしていつも同じ「他人」という人は、いるのだろうかという話です。
全て起きていることは過ぎ去っていきます。今この瞬間の私と1秒前の私や1秒後の私は、正確には全く同じではありません。1秒分のごく僅かな差にしてもその分若かったり年を取っていたり、異なる場所に移っていたりします。そして1秒前の自分も1秒後の自分も、今のこの瞬間には存在していません。
全く同じ「私」というのはどの瞬間にも存在していないのです。しかし「私」は「私とはこういう人」というイメージを、継続させていつの瞬間にも持ち歩くということをしています。
あなたはどんな人ですか?と聞かれた時、どんな風に答えるでしょうか?優しい、優しくない、頭が良い、頭が悪い、気が強い、気が弱い、リーダーシップがある、リーダーシップがない、かわいい、かわいくない....,などなど。それぞれ自分に対して「こんな人」というイメージがあると思います。そしてそれはいくつもあるのではないでしょうか。中には強くて弱いなど矛盾したイメージも一緒に存在するかもしれません。
あるイメージが生きていく上で不利に働きそうなものの場合、それを自分だと思ってしまうとネガティブな感情や思いが湧いて来るので、なんとかそれを見ないようにしたり、押し殺したりします。同じことが他人からの言動で起こる時や、生きていく上で有利と思われるポジティブなイメージを、他人から否定されるようなことが起きると、ネガティブな感情や思いが湧きます。そしての言動をした相手が嫌な人に見えるかもしれません。この「私」にとって、良い人というのはこのような抵抗をなるべく起こさないでくれて、ポジティブなイメージを補強してくれるような相手なのです。嫌な人というのは全く逆のことをする相手になります。
これと全く同じことを「他人」に対しても私たちは行なっています。自分が見た時の他人の「あの人はああいう人」という、自分から見たその人のイメージを持ち運びます。良いイメージで見続けていた相手が、ある時それに反するような言動をとると、「そんな人だと思わなかった!」と怒りや悲しみが湧くかもしれません。実際はずーっとそのイメージの通りで全く変わらない、などとという人はどこにもいません。
「こういう私」も、「ああいう人」も「ただのイメージ」に過ぎないのです。しかし「ただの」とは到底思えないくらいの密度がこれらにはあります。この「私」と関わりが長く深いほど密度は濃くなりますので、それらは普段ただのイメージだとは、なかなか思えないでしょう。私も思えないことがほとんどです。
しかし、静かに静かに「全てはただ移り変わっていく、イメージとは単に自分がそう思い続けているだけのもの」ということを、直視してみたらどうなるでしょうか。私は、とても軽やかな気持ちになりました。自分が自分をどう思うかも、他人が自分をどう思うかも、自分が他人をどう思うかも、全て絶対的なものでも不変のものでもないということが、はっきりと見えてきたからです。