Yukikozo

いいなと思うのは、分けへだてのないココロがベースのやさしい世界。日々ココロを見つめ続けるセラピストです。noteには日々思ったことなどいろいろな内容の雑文を載せています。

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最近の記事

分けない世界

人の思考(言葉)というものは、そもそもカテゴライズする=分ける、ということをしてこの世界を認識しようとする。 そうすると自分が生き残るための最善の方法や、自分が良い思う世の中のあり方を、見つけられることが出来る気になるし、なんとなく予測がつく気がするので安心したりする。 故に分けたり決めつけたりするのは、仕方がないところもある。認識するということは、ここから逃れられないことでもある。 けれど、それがあまり極端になると 「女(男)はいつもズルい」とか 「中国人(日本人)は

    • ひとりごと

      オマエは諸悪の根源だ! オマエは悪の枢軸だ! オマエ達さえいなければ 世界に平和が訪れる。 オマエ達をかけら一つも残さないように 叩きのめし 絶滅させてやる! なんてことを ある日から言われるようになり 化学兵器で日々攻撃されて どうしようもなくなったオレたちは 武器を増やし 新しい兵士を生み出し このオレたちに憎悪と攻撃を向けてくるヤツラに ありとあらゆる手を使って 反撃しているところだ。 ・・・というのが 人類vs新型◯ウィルスの間で 起きている 果てしないイタチごっ

      • 過ぎゆくこと、カナシサについて

        夏だ。 蝉の声が響いている。 大人になると この蝉の声があっというまに 終わってしまうことを知るようになる。 春には桜が美しく咲き誇っても あっというまに散ってしまう。 小野小町はそれを自らに例えて はなのいのちはみじかくてと詠った。 みじかい命に悲しみを感じるからこそ 桜は惜しくてかけがえのない花となる。 若いということの儚さにあわれを感じる。 桜が一年中満開の花であったら こんなに愛されていただろうか。 日本の古語では「かなし」は愛おしいという

        • 春なんてキライなあなたへ

          最近SNSのタイムラインは春爛漫という感じの花の写真でいっぱいです。ご多分に漏れず私も散歩の時に撮ったものを載せたりしていました。歩いている時に触れる、咲き誇る花々の色や香り暖かい風を感じている時は幸せだと思いました。 しかし実は私がこんな風に、春に幸せを感じたりしているのは最近になってからのことです。以前は、春が苦手でした。4月に入るとまだましになっていたけれど、2〜3月の早春なんて、本当に暗い気持ちで過ごしていました。 いろいろな癒しの方法を試してみたり、周りの人たち

          物心ついてからずっと「分かること」が出来れば、その時初めて安らぐことが出来るはずだと、いつも何かを追いかけて来たけれど、安らぎが「分からない」の中にあったとは。

          物心ついてからずっと「分かること」が出来れば、その時初めて安らぐことが出来るはずだと、いつも何かを追いかけて来たけれど、安らぎが「分からない」の中にあったとは。

          見えなくなっていただけ

          自分自身に常にまとわりついてくる生きづらさに苦しんで始めた、数々の癒しのセッションや学び。もうかなり長いあいだ続いているこの過程のなかで今、私が得てきたものを表現すると「強さ」ではないかと思っている。 皆さんは「強さ」と聞くと、どんなイメージをお持ちだろうか?ドラえもんに出てくるいじめっこジャイアン?たくましい無敵のプロレスラー?莫大な財力ですべてを欲しいがままにする大富豪?このような強さとは、何らかの力によって相手を弱めたりねじ伏せたり黙らせたりするものかもしれない。しか

          見えなくなっていただけ

          「ひとりぼっち」のメガネ〜午後の公園にて〜

          もうすぐこの辺りでも、行政からの新型ウィルス対策の自粛要請が明けるというニュースのせいか、久しぶりの晴天の日曜日だからか、近所の公園は家族連れでいっぱいだ。小さな子どもたちは、はちきれそうに体につまった生命力をほとばしらせながら、駆け回ったりブランコを揺らしたり、ボールを投げたりしている。 わたしは一人散歩に出て、そんな人たちに混ざり午後の日差しを浴びながら座っていた。ふと、以前だったらこういう時はそこはかとなく「ひとりぼっち感」が湧いてきてしまいこんな場所にはいられなかっ

          「ひとりぼっち」のメガネ〜午後の公園にて〜

          わたしの中の小さなヒト

          わたしの中には、小さな子どもが住んでいる。 その子はいっつもいっつも四六時中「寂しい!寂しい‼︎寂しい‼︎‼︎」と叫んでいる。あまりの寂しさにところかまわず涙を流したり、じっとしていられなかったり、しょっちゅう何かを口に入れたりし続けている。 優しくしてくれそうな人にはずっと一緒にいて欲しくてしがみついたり、他の人と仲良くしてほしくなかったり、駄々をこねたりもする。 この子のせいで大人のわたしは数々の失敗と失態を繰り返して来たため、わたしはこの子を心の底から憎むようにな

          わたしの中の小さなヒト

          「塞ぎの虫」と新しい自律神経理論

          最近、ステファン・W・ポージェス博士が1994年に提唱した「ポリヴェーガル理論」という新しい自律神経系についての理論が、心理セラピーやボディセラピーの分野に関わる人の間で注目されています。詳しいことが知りたい方は、ぜひ本をお読みください。 「ポリヴェーガル理論入門  心に変革を起こす「安全」と絆」ステファン・W・ポージェス著  花丘ちぐさ訳  春秋社↓クリックすると出版社のページが出ます。 ごく簡単にこの理論のほんの一部を、紹介しようと思います。 この理論では、自律神経

          「塞ぎの虫」と新しい自律神経理論

          塞ぎの虫とは長い付き合い❤️

          時々、前触れもなく「塞ぎの虫」がやってきます。 よくよく見てみれば、それがやって来るにいたる原因はあったりするのですが。 私の場合は、何か気になることがあって、それについてくよくよと考え続けていたとか、根をつめ過ぎて何かをしてしまった時が多いです。 新月の日だったとか満月の日だったとか、ホルモンのバランスがくずれやすい日だった、とかいうのも結構あります。前の日にあまり寝ていなかったとかいうことも。 本当にこの「塞ぎの虫」という表現は、この感じにぴったりで素晴らしいなぁ

          塞ぎの虫とは長い付き合い❤️

          雑草や虫と楽しむ庭づくり 〜直接役に立つかどうかだけ見ていると失ってしまうことは多い〜

          私が幼かった頃、空き地の野原や畑の畦道に生えている草たちは素敵な遊びの道具だった。 ままごとをするなら、古びた茶碗などを畑の脇に持参するだけで、赤まんま(イヌタデ)やオオバコの実を茎からしごいて取ればご飯になったし、お箸やお金など他のままごと道具もその辺に生えているものや落ちているものを使えば足りた。 白詰草やレンゲ、ジュズダマがあるところでは、それを編んだり繋げたりして冠やネックレスにもした。平らな葉っぱはブーブーと鳴る笛にもなったし、笹があればそれは舟になった。 一

          雑草や虫と楽しむ庭づくり 〜直接役に立つかどうかだけ見ていると失ってしまうことは多い〜

          自分という人 他人という人

          下は以前書いたnoteです。起きていることは移り変わっていくだけで「私の人生」という集積は、何処にも実際は存在していないのだ、という気づきについて書きました。今回はそのように移り変わるものの中に、いつも同じ「私」という人、そしていつも同じ「他人」という人は、いるのだろうかという話です。 全て起きていることは過ぎ去っていきます。今この瞬間の私と1秒前の私や1秒後の私は、正確には全く同じではありません。1秒分のごく僅かな差にしてもその分若かったり年を取っていたり、異なる場所に移

          自分という人 他人という人

          ありのままの私〜自分の中の差別意識と向き合う〜

          女性装をしている東京大学教授の安富歩(あゆみ)さん。 数年前に彼女(彼ではない)の書いた文章をネットで読んでとても印象的だったのですが、今回の参院選に出馬されて街頭でお話をしている動画を何本か見たことで再び関心を持ちました。 率直に分かりやすい言葉で、現在の社会で起こっている問題の本質へ迫っていくようなその話を聞いていると本当に快かったです。 この「ありのままの私」は、安富さんが女性装をするまで、そしてしてからの出来事や心のうちが綴られているエッセイです。 (中古本か図

          ありのままの私〜自分の中の差別意識と向き合う〜

          みんなちがってみんないい世界へ

          公園へ向かう道すがら、黒いスーツの一群とすれ違いました。大きなホールの入り口に立ててある看板が目に入り、涙が込み上げてきました。「津久井やまゆり園事件追悼式」を終えた人々の列でした。 その時ふと、身体に障害(あまりこの言葉を使うのは好きではないのですが)を持つ国会議員が2名誕生したこと、彼らを誕生させたリーダーの「生産性で人間の価値をはかる社会。(それを終わりにしよう、やめよう。)」という言葉が頭に浮かびました。 私は世間で言う「生産性」などほとんど無い人間です。(そのよう

          みんなちがってみんないい世界へ

          私の人生は何処に?

          「悟りを生きる」(スコット・キロビー著  ナチュラルスピリット)という本を読みました。 本に書かれているワークをしながら読み進めていた時、ふと「あれ?[私の人生]なんて何処にもない」という気づきが訪れました。そしてなんとも言えない開放感が湧き上がりました。同時になんだか笑ってしまいました。今まで何かを積み上げて来て、これからも何かを積み上げて「人生をより良くする」ために生きようとしていた「自分」というものに今更ながら気づきました。 でも実際は今までも何も掴んでいないし、何

          私の人生は何処に?