平成仮面ライダーと宮藤官九郎。そして「ハズビンホテルへようこそ」 ~ヒーローとはケアする者のことである~
注意書き
本記事では以下の作品を取り上げますがその殆どがネタバレ込みで書いていますので本記事を読む上で気を付けて下さると幸いです。
・推し、燃ゆ
・金閣寺
・仮面ライダー555
・仮面ライダー555 パラダイスロスト
・仮面ライダーアギト PROJECTG4
・仮面ライダー電王
・仮面ライダーオーズ
・池袋ウエストゲートパーク
・光る君へ
・税金で買った本
・ハズビンホテルへようこそ
はじめに
さて、タイトルにある通り平成ライダーと宮藤官九郎のドラマを中心に色々と論ずるというのがこの記事の目的だ。
しかしそれは数十年前に宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』が先行して既に行ったことだ。
「本記事はそれの繰り返しになるのではないか?」という声が聞こえてきそうだが、私と宇野が言いたいことは異なるのでどうか安心(?)して欲しい。
宇野は『ゼロ年代の想像力』において、エヴァに見られる「外の世界は怖い」という価値観或いは考え方から脱却したものとして、平成ライダー(1期)とクドカンドラマを捉えていた。
確かに、そういう側面もある。しかし、私は平成ライダーと宮藤官九郎脚本のドラマは「ケア」を扱った作品であったのではないかと声を大にして言いたい。
本記事ではケアという物差しを軸に主に平成ライダーと宮藤官九郎ドラマについて論じてようと思う。逆に言えば主に平成ライダーと宮藤官九郎ドラマという物差しを軸にケアについて論ずる記事でもある。
また、平成ライダーと宮藤官九郎ドラマを中心に扱うが、他作品も扱くことになってしまうがそのへんはご容赦いただきたい。(でないと‘‘ケア‘‘について自分の中では上手く書くことができないので…。)
そのことを頭の片隅にこの記事を読んでいただけると幸いである。
ケアとは何か
さて、タイトルにも「ケア」という言葉があるがそもそも「ケア」とは何なのであろうか?多くの人は介護だったり、スキンケアとかのケアを連想するだろうがこの記事の「ケア」とは
本橋が言うような「取りこぼされた人」を救う行為が「ケア」であるとする。
平成ライダーと宮藤官九郎のドラマでは少し前に流行った「真の弱者は助けたくなるような姿はしていない」ではないが、社会からは眉を顰められるような「社会からのはみ出し者」が公的な機関によって救われていないのを代わりに主人公(あるいはその周辺の人物)が彼らを救うという描写が多々ある。
それをケアという視点から見ればなかなか面白いワケですよ。
物語にはテーマがある
「いやいや、作り手の人そこまで考えていないと思うよ」と考える人もいるだろう。自分も「ただのこじつけじゃん」と言われたら「はい、そうです…。」と地面に頭をこすりつけて前頭骨が削れるまで謝ります。
ごめんなさい。
ただ、平成ライダーの作り手である白倉伸一郎や井上敏樹や宮藤官九郎の発言や作った作品を見ているとそうは思えないワケですよ。
白倉伸一郎はやっていることは一貫しているし、(ここら辺は白倉の著書である『ヒーローと正義』を読んだり、『Sh15uya』を見てもらえばわかりやすい。)井上敏樹は父との関係を書いた『仮面ライダー・仮面の忍者赤影・隠密剣士・・・ 伊上勝評伝 昭和ヒーロー像を作った男』『ヒーロー、ヒロインはこうして生まれる アニメ・特撮脚本術』でもクリエイターというある種、一般社会で普通に生きてはいけない職を選んでしまった、選ばざるを得なかった自分と父親についてどこか劣等感を感じさせる発言をしている。
だから、井上敏樹は小説という自身で完結できる作品においては必ず、「普通に生きてはいけない者達」を書くのであろう。『小説版仮面ライダー龍騎』『海の底のピアノ』特に『月神』は主人公を皆が持つ、パブリックイメージとしての豪快な井上敏樹を主人公として書いていて露骨である。
宮藤官九郎もインタビューや私小説的作品である『きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)』において男子校に通っていた高校時代や大学を中退してしまった自分に思うところがある発言をしている。
この様に作り手自身が社会からは眉を顰められる存在であり、それを作品に反映させることは何ら不思議ではない。
樋口真嗣が言うところのパンツ理論でもある様に作品というものは意識的あるいは無意識に作り手本人が滲み出てしまうのだ。また作品解釈というものは岡田が『東大オタク学講座』で言うように批評とは対象そのものを語るのではなく、自分と対象との間に横たわる「感じ方を決定するバイアス」について探っていく作業であると評する。
同じ朝日を見ても、都会的ハイソサエティー的朝活が日課な人は美しいと思うけど、朝が苦手な人は「うぜー、嫌いだわ」と思う人もいると。同じ朝日に対する感想でもその人の性格や背景によって違う。そして、朝日に対する感想は実は自分のことを表している。ということになる。
また、岡田斗司夫や町山智浩も言っているが評論の4段階(下記図)があるワケだが、本記事はこの3と4を下に結構論じることになるので「全然違うよー」という意見もそれはそれで正解なのだ。
(だから、本記事言っていることが全然違ってもOK!ということで…よろしく頼みます)
よい子とわるい子理論
平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマは社会的弱者(そしてそれは主に少年少女が多かった)を救うというのが共通したテーマというか作劇がなされている。
特撮が大好きな私としては「ウルトラマンコスモス」「仮面ライダークウガ」「仮面ライダー響鬼(前期)」「爆竜戦隊アバレンジャー」が提示した良い子と悪い子像に対して白倉伸一郎プロデュースした特撮番組において一種のカウンターとして提示したことが思い出されてしまいますね。
それにしても、なぜ「よい子」と「わるい子」はなぜ生まれるのであろうか。そもそも「よい子」と「わるい子」とはなんだろう。
それに対して「白倉伸一郎が『ヒーローと正義』で二元論的な境界線を引いて、大人が勝手に子供によい子とわるい子を判別している」と言えば
まあ、そうなのだが折角の機会なので自分的に色々語ってみたいと思う。
悪い子の資格と死角~「お前の敵はこの社会全体だ」~
白倉は『ヒーローと正義 第4章 勧善と懲悪/都市社会の秩序』でキレる十代や少年犯罪を取り上げて論じているが、この本が出版された2004年より前から既に問題になっていた。
東京都精神医学総合研究所編である初版が1983年の『思春期暴力』の中に斎藤茂男が「第二話 死角の中の子どもたち ジャーナリストの立場から」で既に論じていた。
斎藤は、松竹映画で木下恵介によって映画化された「父よ!母よ!」の原作者でもあるので知っている人もいると思う。この中で斎藤は家庭内暴力、非行少年たちは幼稚園時代~中学低学年あたりにおける子育ての中で、親の側から自立阻害の被害を散々被り、やがて思春期が訪れると自身の中で発生する、自分の力で立ちたいという本能と、それまで身に着けていない、自立できない状態が葛藤を起こし、その内面のせめぎあいの矛盾が暴力という形で噴出しているのではないかとしている。
また、斎藤が暴走族の少年達を取材することで気が付いた共通点として学校教育の中で教師たちなどから徹底的に切り捨てられ、「おまえはばかだ」ということを小学校の高学年から中学校にかけて言い続けられた者が実に多いと。
そういう子供たちは自分は大切な存在であると自己認識できず、結果として他人に対しても、生命の尊重、他人を思いやるという心の働きが出来なくなっている。それと同時に、生活の面でも規律が乱れたり、体力も、他の優位な立場に置かれている子供たちと違って、発達が阻害され、感性の面でも貧しい状態になるという。
暴力少年は学力、体力、感性、生活規律のあらゆる面で落ちこぼれと烙印を押されている子供たちである。その子達はそういう社会的な構造からくる総合的な落ちこぼれ現象として、目の前にあるのではないかというのが斎藤の主張である。
現在、2024年の観点においてもこの斎藤の主張は決して間違ってはおらずむしろ問題の本質を見抜いており、先見の明があったのだなと感じた。
(と、同時に1983年から2024年に至るまで何ら抜本的な解決も進歩もしていないことに絶望しそうになるが…。)
良い子に至る病~「いっぱい自分を殺して、いい子にならないと、ね」~
また、1997年にも春日耕夫が『「よい子」という病 登校拒否とその周辺』という本を書いている。
この本では斎藤が述べたことから一歩進み、良い子と悪い子がどの様に形成される(或いはされるのか)について書かれている。
春日はまず前提として人間は誰しも醜く劣った部分があり、そのありのままの自分を受け入れてもらうことで初めて他者と繋がり、世界と繋がりこの世界を肯定できるとある。
しかし、まわりの期待や要求されるとおりの存在になっている限りのみ愛されるということならば、人は自身がありのままでいることを禁じ、期待と要求されるような存在にあたかもなっているような立ち振る舞いを迫られる。その時、人間は愛を得る代償として自らを破壊することが求められてしまうのだ。
しかし、それで得た愛は期待や要望に答えた際にのみ得られるものであり失敗すれば直ちに撤回される愛なのだ。そのような状況は無言で「お前が私の期待や要求に従わないのなら私はお前を愛さず、見捨てる」と脅迫しているのと何ら代わりないだろう。そのため、人はありのままの自分でいることを禁止し、自身を虐殺し続けなくてはならなくなってしまう。
これが大人が要求する「良い子」が形成される流れという。
悪い子に至る病~「お前はただお前ができるだけの無理をしろ」
では、「悪い子」という大人が要求しないような子にはどうやってなってしまうのか。本書では実際に登校拒否した所謂「優等生」をケースごとに見ている。
例えば、周囲から「成績がトップである」ことを求められ常に過剰とも言うべき勉強に励む子、家族内でお正月ですら険悪の空気になってしまう「成績のよい子」、クラス担任が作ったルールに遵守する「委員長タイプのよい子」が紹介されている。この子らはいずれにしても心身のいずれかが限界を迎えてしまい登校拒否、今で云うところの不登校状態になってしまう。
で、今回は「委員長タイプ」のケースを取り上げるワケだけど、これがどういう話か手短に説明する。担任の先生(学校)が作ったルールを忠実に守る子で、クラスの中の班長であるからルールを破る子に注意したりしていたと。
でもさ、そういう子達って、規則違反と分かった上でやっているからその中で注意されてもただ煩わしいだけだよね。ほら、よくある「宿題しなさいよー」「分かってるって。もう、今から宿題しようと思っていたところなのに!」みたいなウザさがあるワケですよ。
で、ある誤解から「実はあの子は悪口を言っているんじゃないか」とクラス中に広まり、クラスの子達にあった今まで積もり積もった不満が爆発して委員長タイプの子につらつらと悪口を書いた「絶交状」を渡し、それを機に不登校になってしまうというお話。
ここからがまたしんどいお話で先生とか親はその子に対して「それは逃げだ!」とか「頑張んなきゃ駄目よ!」「元気出しなさいよ!」と「励まし」の言葉をかけてしまう。先生に至ってはさらにその子と絶交状を出した子供達に指導したいと言う始末。どうやら先生の言い分としては「いけないことはいけないと教えたい。」「不登校になってしまった彼女に対するみんなの思いも思い出させてやりたいし、誤解の部分もあったかも知れないし、だからきちんと話し合いをさせたい」ということらしい。
でもさ、これって彼女は根本的に悪くないよね。彼女は教室のルールを守ろうとしただけだし、委員長タイプって自己も他者からもそういうレッテルが貼られているからどんなに小さな違反でも無関心でいられるワケないでしょ。しかも、質が悪いことにこれは彼女の性格もあるけど、自動的にそうならざるを得ない環境というか構造が原因なのに彼女そのものが諸悪の根源であると断定されているのが自分としてはすごくやり切れない思いを抱えてしまった。
それにね先生、そんなことしたら火に油を注ぐ行為でしょ。怒られた子供たちとしては「あいつのせいで怒られた」と彼女にさらなるヘイト感情が向くだけでしょ。
励ましと受け入れ~「振り向かなくても構わない。背を向けたいのなら、それでもいい。」~
春日は励ましや指導(教育)するという行為は本質的に相手を否定して自身が望む方向に進む様に促す行為だと。
確かにそうだ。「頑張れ!」という励ましの行為は相手がもう限界に達しているが故にもう頑張れない状況下において「それは甘えで、お前はまだ限界に達していない」とさらに追いつめているものだ。
指導(教育)するという行為も教える本人がどれだけ親切心が動機であっても現在の子供は誤っていると否定しており、大人が思う「望ましい」と思う人間になるように働きかける行為としている。
そもそも、学校の先生が子供に対して「自身の理想」を押し付けその影響下に置こうとするのは学校という存在そのものを否定していて、本質からかけ離れる行為だよね。
白倉は「ヒーローと正義」において学校は異分子を取り除く、隔離するものとして機能しているという。確かに、学校はそういう面として機能している側面もある。
しかし、16世紀のフランスの思想家であるミシェル・ド・モンテーニュは学校とは親の庇護による思想から引き離すためにあるという。著書「エセー」(随想録)において教育はなぜ生まれたのか、家庭で教育を任せてはいけないという認識が広く共有されたから、親から引き離すってことが必要なんだという点で学校が生まれたとしている。
学校というのは割と最近生まれた存在で、近代以前の教育とは家庭教育であった。産業革命下の時代においてはそれで教育は成り立っていた。なぜなら子供は機械を動かすことが出来るだけの知能があればよく、親の職業を引き継ぐのが当然であったあの時代にはそれでよかったのだった。けどそれじゃあ、子は親に支配されているのと同じで洗脳であると。だから学校という外部の機関によって親から引き離し、子供に多様な考えを与え、自分で自分のことを決定しよう!だから学校があるんだ!というワケです。
フランスは割と自由というのにうるさい国で。それはフランス革命や、フランス演劇でメロドラマが流行ったり、子供という存在は慈しみ育てる必要があるとブルジョア階級に浸透したことでユゴーやディケンズの小説が多く受け入れられたりするワケですよね。(フランス革命についてはエドモンド=バーグが『フランス革命の省察』で「豚のような群衆」「夏の蠅」「無学者の知恵」といった畜生発言をしながらあーだこーだ言って批判してたりする)
話を戻そう。
しかし、「受け止める」という行為はその逆で苦悩や悲しみ、葛藤を全面的に耳を傾け、それをまるごと共感し、苦悩や悲しみ、葛藤をその人と共に分かち合う言葉である。それは励ましや指導(教育)が否定の言葉だったのに対して受け止める言葉は肯定の言葉なのである。
受け止められた瞬間、人間は他者や世界と接続され、自分と世界を肯定出来るのだ。
励まさないということ自体が励ますことに繋がり、大きな慰めなのだ。
受け止めるという行為は確かに問題そのものを解決することはない。しかし、受け止められた人間はそうしてもともとの問題に立ち向かい、それと戦おうとする勇気が与えられる。自分自身のそなの足で歩むことが出来るようになるのだ。
受け止めるという行為は依存者にも有効な方法でエヴァ・フェダー・キテイ(岡野八代+牟田和恵 監訳)が2010年に書いた『愛と労働あるいは依存とケアの正義論』において
「なんのこっちゃ???」となるが要はケアに必要なのは
①相手を思いやる
②相手に共感する
③相手にフィットする反応、答えや考えをお出しする
ということだ。
この三要素に共通する特徴として、「相手に寄り添う」こと「受け入れる」ということではないだろうか。
「受け止める」という行為は依存者だけではなく、教育においても有効なアプローチである。
2004年にミネルヴァ書房から出版された岡田敬司の著作『「自律」の復権ー教育的かかわりと自律を育む共同体』において
岡田によるとピアジェ(スイスの心理学者)の道徳発達理論による自律概念が生活に即しており、ピアジェは自律とは、子どもが親の権威を離れ自己の欲求に基づいて、もしくは自己による理由づけをし、意識することで行為を決定すること。
他律とは、子どもが親の権威に従属して行為決定をしていることを指すという。押しつけ的な教育は他律であると批判した上で。自律には何が必要かを説明している。
岡田は9〜10pで子どもが自律に至る道筋には3点があるとし、
①自律的な大人(教育者)のモデル学習
②教育者の他律干渉に反抗、否定することによって自律へと到達させる
③他律的教育による断片的知識の蓄積がある時点で臨界点に達して一定の構造化を伴う全体生を立ち上げ、個々の出来事や知識断片に意味を感受することができ、自律的判断が可能になるという道筋だ。
ま、要は修行のプロセスにおける守破離と思ってもらえれば良いだろう。
受け止めるという行為によって白倉伸一郎が「ファンタスティックコレクション 仮面ライダー龍騎」のp55で語った「たとえ私たちが、ふたたび物語の波にさらわれていったとしても、子供の中から、いつか物語に打ち勝ち、現実そのものを手さぐりで手にする人が生まれることを願ってやまない。」という現実に立ち向かい、自身の物語と紡いでいく第一歩であり必要条件なのだろう。
特ヲタの自分としては帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」やウルトラマンA最終回である「明日のエースは君だ!」を思い出してしまった。
何かにヘイトを向けるのは簡単だ。
それは白倉が境界線だの二元論だの言ってるよね。
じゃあ、なぜ人間はそんなことをするのか?
なぜ人間は二分にするのかについてはマリア・コニコヴァ(2016)『シャーロック・ホームズの思考術』(日暮雅通訳)によると人間はワトソンシステムとホームズシステムがあるとし、ワトソンシステムは直感的で反射的で思考や努力は必要としない。ホームズシステムは反応が緩く、慎重で、徹底し、論理にかなった動きをする。しかし、ホームズシステムが脳を消費するために不可欠という限り使われることはなく、ワトソンシステムを使用するのだと説明している。つまり、人間は脳にとって楽なため物事を二分にしているに過ぎないのだ。
だからこそ、ウルトラマンAの最後の言葉「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえその気持ちが何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ」を意識していきたいなぁ、と。私はそう感じるワケです。難しいけどね
ケアされないと、どうなる?
ケアされないと人間はどうなってしまうのであろうか。
赤羽由紀夫『氷河期世代の殺人と苦悩』では安倍元首相銃撃事件の加害者であるY氏のSNSアカウントを見るに、社会から孤立し、貧困に苦しむ中年男性を主人公にした映画『ジョーカー』に言及した投稿。また、「なぜかこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている」という投稿から孤立に果てに絶望し、犯行に及んでしまったのではないかと言う。
社会から見放され、「受け止められる」という寄り添いが不足したがために社会に影響を与えてしまうのだ。
それについては現代思想50巻15‐16(2022年)で伊藤昌亮『「弱者男性論」の形成と変容』、藤田直哉『ゼロ年代 未完のプロジェクト』や先ほど取り上げた赤羽由紀夫『氷河期世代の殺人と苦悩』が詳しく述べているのでそちらに任せようと思う。
そう言えば、世界的独裁者として有名なヒトラーやスターリン、日本犯罪史に名を残す麻原彰晃や宅間守の経歴を見ると、やはり両親や教師との関係はどこか歪である。少なくとも、恵まれていたとは言えないだろう。彼らもまた、成長にかけて大人に何かを歪まされ、何かを歪まされた人間なのである。そんな人間が残虐な行為に及んだのも上記の論を見れば納得するものもある。
岡田斗司夫『「世界征服」は可能か?』においてもヒトラーのもとには全ての情報は集まり、全て自分が決めるので忙しい。忙しが、他人に任せられない。任せるということは他人に権力を預けることであり、そいつが自分の権力を脅かすかもしれない。だから、任せられなかった独裁者なのであると。(バビル二世のヨミ様とかデスノートの夜神月とかもそう)これもヒトラーの経歴を鑑みると納得である。なぜなら、小さい頃に他人に助けてもらったりする経験が少ないから発想としてまず無いのだ。
現実世界ではこのような影響があるとあらゆる知識人は述べているが、さてさて私はどの角度から述べようか。と思った。
ので、ここはサブカルチャーが好きなボンクラ野郎の私らしく物語を用いながらちょっと論じてみようかと思う。
物語に囚われた者たちへ
恋愛小説としての「推し、燃ゆ」と「金閣寺」
私の中でケアされることがない故に、破滅への道に辿ってしまった作品として宇佐美りんの『推し、燃ゆ』と三島由紀夫の『金閣寺』の二冊がが思い浮かんだ。
この二冊は自分の中では恋愛小説という位置付けにあたるのだ。しかも、ただの恋愛小説ではない。片思いというある種一方通行的な感情。好意を寄せた相手に囚われるがあまり自身の社会的な生活はボロボロになっていくのだ。
『推し、燃ゆ』と『金閣寺』の類似性については書評家の三宅香帆がたびたび発言していたように思う。(めちゃくちゃおぼろげなので、信用しないでください…。)
この二冊を読んだことがある人の中には何人かは頷く人がいると思う。
「肉体を持っている自分への嫌悪と否定」「信仰対象がなんらかのメタファーとして機能している」「信仰対象が‘‘燃える‘‘ことで主人公の人生のターニングポイントとなるプロット性」「思春期特有の異性への仄かな香りと内向的な悩み」等々出ると思うし、私もそう思う。
が、今回はケアの視点で色々語らせて下さい。
「推し、燃ゆ」の場合
まず『推し、燃ゆ』のあらすじについて
小説はアイドルオタクの少女の一人称視点で記述されていくのがこの小説の特徴。
三宅香帆『女の子の謎を解く』においても指摘しているけどこの物語は話が進めば進むほど主人公はあらゆるものと切断されていく。
それは、学校や友人やバイト先、最終的には家族とも半ば縁を切られてしまう。
ここにおいて主人公は「発達障害」抱えている描写がある。しかし、それは誰からも理解されない。それは親からも。
親は受け止めたりはしない。彼女の限界だという叫びにも頑張れと言うのみだ。それがダメな方法なのは先で述べたとおりだ。
彼女は親から隔離され、半ば強制的に独り暮らしをするのだが部屋は服は脱ぎ散らかし、出しっぱなしのコップ、汁が入ったままのどんぶりがあるような部屋だ。そして、心身が不調をきたしていることから逃げる様に推し活の世界にさらにのめり込むのだ。
しかし、彼女のその生活と世界に終わりが来る。推しのアイドルが引退してしまう。彼女はネットに書かれたアイドルが住むとされるマンションに向かうがそこで洗濯物を抱えベランダに出たショートボブの女の人を見てしまい、彼女はショートボブの女の人がアイドルの彼女であるという保証はどこにもないと理解しながら、「推しは人になった」と気が付く。
その後、自身の部屋で何かに当たるように綿棒が入ったケースを思いっきり振り落とす。
推しは放送でだいたいご飯を食べているから、多少、食欲が湧く。と理由で食事をとっていたり、推しの深夜帯の放送で、おやすみ、と言われたら寝る様な自身の生理的欲求さえも誰かに委ねていた彼女が自身の足で歩き始める、たとえその道が苦しくとも…。という感動的な場面である一方でその道が本当につらいことにはかわりない。もう少し、周りが彼女を受けとめて、ケアしていたら彼女はわざわざその茨の道を歩くことはなかったのではなかろうか。とも思ってしまう。
「金閣寺」の場合
「推し、燃ゆ」は‘‘推し‘‘という物語に囚われた結果、生活をも崩壊してしまったが最後の最後になんとか自身でケアすることが出来た。という話だった。では、金閣寺はどうなのであろうか。
金閣寺は天皇を象徴しているのではないかとよく論じられるが
「それは絶対に違うよ!」と言ってもいいほどだ。
金閣寺は初恋相手である有為子とイコール関係なのであろう。
作中では何度も何度も金閣寺が主人公の前に立ちふさがる。
すごい。金閣寺はこれで恋愛小説で、しかも童貞小説でもあることが決定づけられたのだ。金閣寺の前に書かれた精神的前作である『仮面の告白』は「なぜ俺は恋愛出来ないのか」を三島由紀夫の文体の力で難癖をつけて言い訳をする童貞小説だったワケだが、これによって『仮面の告白』にあった童貞性を恋愛へと昇華させることが出来たんだよね。
乳房が金閣寺に見えるってなんだよ。えっちする時に金閣寺が見えたってなんなんだよ。
でもさ、これ金閣寺を有為子に変換すると分かるんだよね。
乳房が有為子に見えるってなんだよ。えっちする時に有為子が見えたってなんなんだよ。
初恋の定義は人によって違うけど、初恋の相手は誰だって美化しちゃうじゃないですか。よく言うじゃないですか「好きなタイプというのは初恋の相手がモデルになっている」って。
ファムファタール(運命の女)というか、女神というか。
後に取り上げるが、石ノ森章太郎にとってそれは「姉」であるみたいな?
恋愛だけじゃなくて、「思春期に影響を受けた作品がその後の人生や作品趣向に影響を及ぼす」みたいな?(恋愛でピンと来ない人はこっちの方がわかってもらえやすいかも。)
そんな感じです。
で、この主人公は吃音症で周囲との交流も殆どなく、内面描写を読む限りすごい拗れた思考回路の持ち主で普通、親や先生の支援によってそういうのってどこか治っていくじゃないですか。それがこの主人公にはない。母親は立派な僧侶になることを主人公に口を開けば求めているし。それは、先ほど例に出した成績上位であることを迫る親と同じですよね。子供を営業成績を上げさせるために詰めるように接していたらそりゃ、拗れるよな、と。子供を機械とか何かと勘違いしてるんじゃないかと。それは教育というものをはき違えているよね。
あと、こういう一人の恋した女性を追い求めて自滅する男は仮面ライダーカイザこと草加雅人っぽいよね。
まあ、それは置いておいてこの後主人公は大学に出席しなくなったり、成績が悪くなったり、女遊びをしまくるし、いきなり寺を抜け出して旅行に行って警察にお世話になったり。ここらへんは『推し、燃ゆ』と同じで徐々に(社会的な)生活が崩壊していくところとか似ていると思う。
で、『推し、燃ゆ』では自身がケア出来るようになるキッカケは与えられたけどこの『金閣寺』では与えられない。
って、金閣寺に放火したあとに思っている。『推し、燃ゆ』と同じように最後は生きよう。と思うところは同じでハッピーエンド風だけどそんなことはない。むしろ『推し、燃ゆ』より救いがない。『推し、燃ゆ』ではギリギリのところで自分で正しい健康的なケアが出来ていたが本作では破滅の道を歩みながら、間違った、不健康なケアによって終わっている。
太宰治の『斜陽』でこんな一文がある
この一文かなり好きなんだけど、好きな相手に火を消してもらえなかったら、その火で相手を燃やし尽くし、消し去ることでしか自分の中の火を消すことが、終わらせることが出来なかったのだと思う。
本当は誰かが、彼の火を消してあげることが必要だったのだと思う。
なぜ物語に囚われてはいけないのか
『推し、燃ゆ』と『金閣寺』は自身が好きな人(恋愛)という物語に囚われたので破滅への道を歩んでしまった。しかも、その行いはどこか自身の欠けた部分を埋めるように。上手くいっていない現実から目を背けるように。
千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』において世界を物語化したが故に変わってしまった一例として『黒子のバスケ』脅迫事件の裁判を例に出している。
最初は被告は自身の動機について「自分の人生に絶望しており、自身が望んだものを持っている『黒子のバスケ』の作者を標的として、社会に一太刀浴びせ、社会から死刑になり退場したかった」と。
しかし、最終陳述では「自分が不幸な境遇ではなく、実はただ努力が足りなかったのではないか、と。『黒子のバスケ』作者は努力を重ねることができたあくまで代表としての標的」
「自分はどうしようもない不幸な境遇で育ったから今に至る。という物語を『黒子のバスケ』作者の存在によって邪魔されたように感じたから」
彼は最初の供述と異なるのは世間が自分をどう見るのか。ネットで事件がどう扱われているかを参照したので被告の中である物語が上書きされて、異なった物語を語ることになってしまったのではないかという。
物語に囚われると、自身の運命が決まる場においてもその物語に染まり、間違ったことをしてしまうのだ。
それは『推し、燃ゆ』と『金閣寺』の主人公が自身の物語を上書きされたが故に間違った道を歩んだように。
これが、物語に囚われることの恐ろしさの様に私は感じる。
また、約5年前に出版され大きな話題を呼んだ、著ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』においても人間は10の思い込み(物語)を信じ込んでしまい、世界を正しく見ることが出来ていないと論じている。この本は客観的データを用いながら、その10の物語がいかに間違った語られ方によって作られたものかが書いてある。かく言う私も衝撃を受けたものだ。それは私だけでなく多くの人間にも衝撃を与えたため、大ヒットしたのだろう。
もはや人間という種族の多くは間違った物語を語り、紡ぎ、信じてしまう生き物なのだ。
だから、だからこそ私達は正しい、少なくとも個人にとってケアとなる様な物語を紡ぐ必要があるのだ。
平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマについて
さて、ここまで長い長い前提というか前置きというか。
ケアとは?物語とは?について色々書いてきたワケです。
長い前提としてのケアとか物語について述べないと共通認識というか、ケアや物語という単語が出てくる度にいちいち説明するハメになるからやらせていただきやした。
そう、「遠回りこそがこの記事の最短の道だった」ってことです。
ただ、そうしてケアとか物語について色々ある中で自分はやっと平成ライダーと宮藤官九郎ドラマについて語れるワケです。
自分が思うに平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマはここらへんを上手く捌いている。すごく理想的に書いていると思うのですよ。それをここから書いていこうと思います。
平成仮面ライダーの場合
物語に囚われること、そして脱却の「仮面ライダー555」
仮面ライダー555において「夢」というのは肯定的に書かれている。
夢とは本人にとっては間違いなく大切で、誰からも干渉されることのない、嘘偽りのない最小単位での物語だからだ。
これは仮面ライダー555に関わった田﨑監督、白倉プロデューサーが手掛けたSh15uyaにおいても主人公「ツヨシ」が月に行くことが物語として重要に扱われており、実際に新垣結衣演じる「エマ」の心も動かしたのはツヨシの「夢」であることからこのスタッフは「夢」を重要視していることがわかる。
また、仮面ライダー555の7話「夢の力」8話「夢の守り人」でも夢を中心に物語が進んでいる。
「おい!知ってるか?夢を持つとな、時々すっごい切なくなるが時々すっごい熱くなる、……らしい。俺には夢がない……。でもな、夢を守ることはできる」「知ってるかな?夢っていうのは呪いと同じなんだ。途中で挫折した者はずっと呪われたまま……らしい……。あなたの……罪は重い!」は今でも残る名セリフとして名高い。また最終回「俺の夢」では主人公乾巧が夢を見つけたところでこの物語は幕を閉じる。
このように仮面ライダー555において自身の夢(最小単位での自分の物語)が書かれる。
しかし、夢を持てない。或いは物語を誰かに託すものは否定的に書かれる。
映画「パラダイスロスト」では人間は「ファイズ」を信仰しないと生きていけないように描写されている。そしてヒロインである真理の語る物語を現実にしてしまった巧は自身の夢を見つけることがないまま、救世主であるが故に個人として自立できないまま物語は終える。
アークオルフェノクはファイズやカイザやデルタに似た‘‘バッタ‘‘モチーフの怪人であり、孤児である鈴木照夫少年がピンチの時には変身して代わりに何とかしてくれる。
しかし、その変身は現実という物語を代わりに何とかしてもらっているにすぎない。
最終回においても木場は「まだ俺には分からない……何が正しいのか。その答えを、君が俺に教えてくれ!」と言うがそれは他人に答えを、物語を、夢を求めているのでこの番組の文法では死ぬしかないのだ。
仮面ライダー555の精神的前作である仮面ライダーアギトの劇場版「PROJECTG4」でも主人公津上翔一が劇中において「それに、真魚ちゃんを助けるために戦うなら、そこが俺のいるべき場所なんだ」と言って去るが、その後にヒロインである風谷真魚は翔一には闇の力に殺される未来を未来視によって視ており、これは翔一が真魚に自身の戦う理由、答えを委ねてしまったからだ。
だから、仮面ライダー555の最終回では明らかに「仮面ライダー(555)」をモチーフにしたアークオルフェノクをキックで倒すのである。
それは鈴木照夫少年の中にある、囚われた物語をキックで吹っ飛ばすのだ。
物語からの脱却を、ライダーキックによってあらわしているのだ。
これをやりたいがために、デザイナーである篠原保が巧をバッタモチーフのオルフェノクにしようとした際に白倉が止め、ウルフになったのであろう。
告白すること、そして話を聞くというケアを書いた「仮面ライダー電王」
宇野は『ゼロ年代の想像力』において仮面ライダー電王をこう評価している
今回は割と宇野が述べていることに近いかもしれない。
仮面ライダー電王はイマジンの契約者が自身の罪、問題を告白する。そしてヒーローである良太郎たちがそれを聞くことでケアをなしている作品であると思う。
告白、告解はキリスト教的価値観では懺悔である。自身の悩みに向き合いそれを他人に打ち明けることで罪は清められるのだという。
それは第30話「奥さん花火どう?」は最もヒーローのケアを如実に書いていると思うのですよ。
寺崎トオルは花火職人という夢を叶えるために妻と子供がいるにも関わらず仕事を辞めてしまう。経済的DVだったり、本当にDVしたりする。そんなどうしようもない男なんだけど、良太郎達が介入することで、最後に何年も会ってなかった息子や妻と和解し、夢も実現する。
ここで大事なのは良太郎が話を聞いてあげたことで素直に息子と抱き合えたのではないかと思うのです。
良太郎が話を聞いてあげなかったら、あんなにも素直になれなかったと思うのですよ。ここに電王の本質がある。
電王は作劇の都合上で、「約20分番組で制約があるからカードをかざしたらペラペラ自分から喋ってもらわないと困る」というのもあるけど契約者がどんなことを願ったのか聞く必要がある。
それはイマジンが人間の記憶の中にある「現在のその人間像を作った最も強い時間」に行くのでそれを防ぐために必要なのだ。その願いや過去というのは自身のトラウマや欠損した何かが反映されている。図らずも、その過去や願いを聞くことはトラウマやその人の欠損部分を聞いていることになるのだ。
電王は話を聞く、それに一緒に向き合うことで囚われている物語から脱却させているのだ。それはイマジンのデザインが童話という物語から発想されており、そのイマジンを倒すという図式から示唆されている。自分が囚われているお話(童話)を聞くことで、そこから脱却し、新しいお話(現実)を作ることができる。
電王におけるイマジンを倒すということは契約者のトラウマや欠損部分を乗り越えることなのだ。そして、それは本当は良太郎が話を聞いたり、一緒に向き合ったりすることで解決している。先にも述べた受け止めるというケア方法だろう。ただ、エンタメ性確保のためにイマジンとのバトルという風に可視化されているに過ぎないのだ。(この点、2話完結型だったり、作劇の構図が似ている仮面ライダーWでは犯人のトリックや過去という犯人の‘‘業‘‘を明かしてもあくまで通過点であり、バトル描写に重きを置いているのが面白い。)
これは後年「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」においても人生が望んだようにいっていない人間が「めでたしめでたし」というハッピーエンドで終える童話をスーパー戦隊というお話に変更し、取り憑かれてしまった人々を桃太郎という童話モチーフの戦隊が「めでたしめでたし」という方向に導きケアするお話へと発展させている。
個人個人には様々な「物語」(背景、環境、願望)がある。それをなにかの形で他者に晒す。それはいつも決して現実を書き換えられないかもしれない。けど、個人の気持ちは変えられるかもしれない。だから、世の中にはカウンセラーというものがある。喋らなくても何か形にすることで、見てもらうことは他者に晒しているのと変わらない。パンツ理論はそういう意味もあるし、井上敏樹や大石静の言う「作家は転んでもタダでは起き上がらない。(なぜなら、それを作品に昇華させるので)」もこの様な意味合いがあるのだろう。
この様な他者を媒介することで自身をケアするというのは、次で語る「仮面ライダーオーズ」で研ぎ澄まされていく。
誰かに受け止めてもらう、助けてもらう「仮面ライダーオーズ」
白倉伸一郎、井上敏樹が作劇上で行おうとした志は所謂、平成ライダー二期に入っても受け継がれた。
それは彼らと親交の深い武部直美プロデューサー、脚本家小林靖子、メイン監督田﨑竜太の座組によって作られた仮面ライダーオーズを見れば分かると思う。
象徴的なのは第45話「奇襲とプロトバースと愛の欲望」で書かれれる。
火野映司が行き過ぎた自己犠牲、献身的な行動と飽くなき欲望は今も語り草だ。
そして
45話ではそんな映司に周りのキャラが心配し言葉をかける。
比奈「映司くん、自分のことも・・・ちゃんと守ってね」
後藤「どうして自分のこともそう思えない?自分の欲のこと、もっと真剣に考えてみろ!」
そして、最終回「明日のメダルとパンツと掴む腕」では最終決戦後に映司を助けようと、映司の手を掴もうと手を差し伸べる。
後藤「火野!掴まれ、早く!!」
映司「後藤さん!!」
後藤「もう何でも独りでしょい込むのはやめろ!!俺たちがいる。俺たちの手を掴め!!」
地上では比奈、知世子、伊達、エリカが映司を待ち構えていた。
比奈「映司くん!!」
知世子「大丈夫だから、ドーンと来なさい!!」
伊達「誰にも頼らないってのは、強いことじゃねーぞ!?」
エリカ「火野さん!ここですから!!」
「火野さん!」「映司くん!」「火野ーっ!!」「頑張ってーっ!!」
四人を見つめる映司。
映司(俺が欲しかった力…… どこまでも届く俺の腕……それって……)
映司がバース(後藤)の手を取る。
映司「こうすれば、手に入ったんだ」
火野映司という人間は内戦に巻き込まれ、心にトラウマ(PTSD)を抱えたためにあのような人格が形成されたどこか壊れた人間だ。
だが、映司は誰かに頼ること、受け止めてもらうこと、助けてもらうことを覚える。そうやってケアしてもらうことを是とすることで過去を乗り越える。ここでやっとケアされ、自身が世界と繋がっていることを実感するのだ。
ここで平成仮面ライダーによって書かれるケアというものは一つの到達点に達したと言えるかもしれません。
ラスボスとして書かれたドクター真木は映司と同じく過去にトラウマを抱えた人間だが、最後まで他人の手を取る。ケアしてもらうことができない、受け止めてもらえなかった主人公である映司の陰(シャドウ)として書かれている。ドクター真木は映司のバッドエンドルートであり、ありえたかもしれない人間なのだ。
本作は欲望がテーマの作品だが、この欲望は常に肯定されてる。仮面ライダー555における夢と同じだ。よくよく考えれば欲望は本人にとっては間違いなく大切で、誰からも干渉されることのない、嘘偽りのない最小単位での物語である。夢=欲望なのだ。
ドクター真木の欲望「世界に終末を」は彼の過去、姉とのトラウマが根底にある。555の文法を受け継ぐオーズではそれは自身の物語を他に侵食されているとジャッジされるので最後は負けてしまうのだろう。
宮藤官九郎ドラマの場合
クドカン的ケアが殆ど完成されている「池袋ウエストゲートパーク」
さて、平成仮面ライダー的ケアについて作品解説と共に述べましたが
同じく2000年代のドラマで人気を博した宮藤官九郎のドラマはどの様に書かれたのでしょうか?
宮藤官九郎三部作と言われる「池袋ウエストゲートパーク」「木更津キャッツアイ」「タイガー&ドラゴン」を取り上げてみましょう。
池袋ウエストゲートパークのケアは「否定することなくそのまま向き合う」「継続的支援によるケア」「書くことによるケア」をやっているんですよね。
「否定することなくそのまま向き合う」は第6話「6チャンネルの回 僕のたった一人の友達」では学習障害を持ち、反社会的勢力であるヤクザの息がかかった会社の社長を父に持つ少年ヒロキは自分にとって人間は数字としてしかカウントできないと言う。
そんなヒロキに対して主人公マコトは「なあヒロキ。俺、通行人その1でもいいからさ、明日も遊んでくれよ。」
いい。すごくいいセリフだ。
ヒロキに対して「治せ」だとか、憐れんだりする言葉は言わない。マコトはそんなヒロキを受け入れた上で「明日も遊んでくれよ」という言葉なのだ。ヒロキに必要なことは励ましでもなんでもない。ただ、受け入れる。そして、ただただ隣で楽しく一緒に遊ぶことなのだ。
この6話はかなり好きで。義理の兄エリトがヒロキ誘拐事件に関わっていたことを知り、お仕置きとして暴力を振るう父の多田三樹夫、それがショックで持病の発作が引き起こされ叫んでしまうヒロキ、うろたえることしか出来ないヒロキの母である吉村ちづる。その1シーンを取り上げる。
横山「親子でもな、殺人未遂は殺人未遂だ」
マコト「やらせろよ。こんなクズ野郎殺されちまえばいいんだよ。オラ!オラ!」
多田「何やってんだお前」
マコト「何だよ。おめえは良くて何で俺はダメなんだよ。おめえらヒロキの何だよ。薬切れて苦しんでんのに水持ってこねえじゃねえかよ誰も!」
この実の身内より他人だが、ヒロキと等身大での付き合いをしてきたマコトの方が彼を心配でいる。そして、真っ先に救うべき子供が目の前に確実にいるのに何をやっているのかと怒るマコトはテレビの向こう側にある、どこか歪んだ家庭に対しての説教のように見える。
この回では結局、母である吉村ちづるの願いむなしくエリトが多田に勘当されてしまい、エリトとヒロキは引き離されてしまう。
問題はなにも解決していない。むしろ悪化してしまった。そして現実は非常だ。
にも関わらずこの家族は前よりも良いものになったと思うし、ヒロキはどこか変われたように思う。
それは、マコトが受け入れた上で彼なりのぶつかり方による真っすぐとした向き合い方をしてくれたからだろう。
それは10話「十手の回」でマコトがヒカルの母親と会話するところ
シーンによく表れていると思う。
細川「多重人格障害というのは、正確には解離性障害といって」
マコト「何よそれ」
細川「知らないんすか?ビリー・ミリガンとか」
マコト「え、誰それ。全日?新日?」
細川「ある人格の中に」
マコト「話進めんなよ」
細川「おー、いいのあるじゃない。えーっとですね。これが、光子ちゃんです。彼女の身に、トラウマ…」
マコト「(睨む)」
細川「やな事が起きたとして、それを忘れたいと思った時にですね。その、トラウマ…」
マコト「(睨む)」
細川「やな事の思い出を担当する人格、つまり、もう1人の自分を作ろうとするんです。それが、こっち。どうです?我ながら、ずいぶんわかりやすい説明だったと思うんですけど。」
マコト「…全然わかんねえ。その、虎と馬は双子とどう違うわけ?」
細川「うーん」
マコト「だってぜってえありえねえじゃん。そんな一つの体に虎と馬が入ってるなんてよ。納得いかねえ話が見えねえ俺には全然ダメ。」
細川「ダメって言われても、ねえ」
和子「あ…この人じゃ全然お話になんないかも」
マコト「んだよそれ!おめえらさっきから頭いいもん同士でイチャイチャしやがってよ」
細川「イチャイチャはしてないですけど」
マコト「俺ここ来てからすげえ腹立ってんだけど。大学ん中どうなってんだよ。あんたさ、自分の娘の話してる時眼鏡かけてんじゃねえよ。冷静すぎるっつってんだよ。俺から言わしてみたら月に一回しか会わねえ奴が偉そうにヒカルのこと語ってんじゃねえ。俺は毎日ヒカルと会って毎日ヒカルとしゃべって、毎日ヒカルのことばっか考えて。それでもわかんねえことだらけなんだよ。あんたも俺と同じスタートラインに立てよ、わかったか」
和子「はい…。」
マコト「で双子とはどう違うんだよ」
ここのマコトはとにかくアツいのだ。ヒカルと継続的に、真っすっぐと向き合っているからこそ言える台詞だろう。そして、マコトのおバカな一面も見れてかなり笑えるので好きなシーンだ。
池袋ウエストゲートパークに登場するキャラクターは社会から受け入れがたい人物が多い。カラーギャングのボスであるキングや、万引きをしようとしたアニメオタクのシュン、引きこもり和範、暴力団員のサル、不法滞在者のアリ、元女性であり覗き部屋サイトのスカウトマンのショー、マコトの父だがホームレスの剣さん、ネズミ講にハマるマコトの母親の律子、そして主人公のマコトも工業高校を卒業してフリーターだ。
別に私は差別主義者でもなんでもないが、やっぱり今の時代でも上記のような人物は社会からどこか色眼鏡で見られるし、世間からは負け組の烙印を押されちゃうじゃないですか。ただ、それでも宮藤官九郎は愛を持ってキャラクター達を生き生きと描く。彼らを決して否定も肯定もしない。ありのまま、ただ生きている姿を書く。そこが素晴らしいのだ。それにはやはり、クドカンもそっち側の人間という意識があり、「もしかしたらありえたかもしれない自分」の一種として書いているような気がする。それは宮藤官九郎が書く脚本では一貫しており、それは現在でも「不適切にもほどがある!」で社会の時流に乗り遅れたおじさん(おばさん)や、「新宿野戦病院」ではトー横キッズを書いたりしているのでわかりやすい。
池袋ウエストゲートパークはそんな社会からのはみ出し者と継続的に交流する姿が描かれる。それは響鬼(前期)においてプロットの都合上で存在する万引き少年少女や、ケアを積極的に書いた電王のゲストキャラクターとは違うのだ。平成仮面ライダーでは1~3回ほど登場して終わりだが、池袋ウエストゲートパークにおいては何度も何度も登場するし、印象に残るような登場をする。そのたびに彼らはどこか違う一面を見せてくれる。それはそのキャラが成長している現在進行形のキャラだからだろう。
そして、スープの回では「書く」というか自身で物語を生み出すことで現実という物語を変えていく(良いものにしていく)のが書かれる。
ここで重要なのはヒロインでマコトの彼女でもあるヒカルだ。
宇野は『ゼロ年代の想像力 第七章 宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか』で池袋ウエストゲートパークに登場し、一連の事件の犯人であるヒロイン、ヒカルは少女期に父親から受けた性的虐待を受けたことが原因で、相手を傷つけ、傷つけられる人間関係から脱却し、そのはけ口を自分の存在を全肯定してくれる恋人=マコトに求める碇シンジ的な引きこもり/セカイ系のキャラクターであるとしている。
が、私はそこから一歩先のヒカルに注目する。
マコトはスープの回でも見られる様に、ヒカルとは関係を続けている。
マコト「あっ!今日何日だよ?」
マサ「22」
マコト電話を掛けはじめる。
マサ「誰?」
マコト「ヒカル。毎月22日にしゃべってんの、付き合い始めた記念日。電話しないとメチャ切れんだよ」
マサ「マコト・・」
マコト「ずっと俺の彼女宣言しちゃったしさ」
ここでもマコトはヒカルを切る捨てるのではなく、本編後も継続的な交流(支援/ケア)を行っているのが垣間見えるいいシーンだ。
その後、ヒカルは自身の人生(問題)をモデルにした小説を書き、出版していることが分かる。
ヒカル「マコっちゃんも出てくるけど、それより前のお父さんとの話がメンイなんだ」
マコト「お前平気なのかよ?」
ヒカル「うん・・最初はね吐きそうになったけど書いたら楽になった。売れたらもっと楽になった」
最近だとNHK大河ドラマ『光る君へ』でも書くことで救われることを書いていた。
第15回 「おごれる者たち」において石山寺で源氏物語の作者である紫式部(まひろ)は蜻蛉日記の作者、藤原道綱の母である藤原寧子と出会う。そこでこんな言葉が投げかけられる。
寧子「いのちを燃やして人を想うことは素晴らしい。けれど妾は辛うございますから」
と、しつつも彼女は次の言葉を発する。
寧子「殿との日々が私の一生のすべてでございました。私は日記に書く事で、己の悲しみを救いました」
寧子「あの方との日々を日記に書きしるし、公にすることで、妾の痛みをいやしたのでございます」
ヒカルも寧子も、自身の苦しみを誰かからケアされるのではなく、執筆を行うことで究極的な自身によるケアを行うのだ。
(ちなみにスープの回ではRIZEが観客という‘‘他人‘‘の為に音楽/物語を作っており、そのために骨を砕く音を録っていたりするのでこの世界では悪として書かれる。あと、個人的にだがホームレス連続襲撃事件の描写はなんだかグロンギのゲゲルっぽさを感じてしまうんだよなぁ。)
これは何も創作の人物だけが行っていることではない、チェンソーマンやSPY×FAMILYを世に送り出したジャンプの編集者である林士平氏も行っており、実際有効なケア方法なのだろう。
このスープの回は木更津キャッツアイ後、「マンハッタンラブストーリー」と「タイガー&ドラゴン」の前であり、池袋ウエストゲートパークTV本編では見ることができなかった宮藤官九郎ドラマの特徴の1つである「物語(或いは別の現実)によって現実を変える」をやっている。やはり宮藤官九郎を語る際には外せないのが「池袋ウエストゲートパーク」だと思う。
[番外編]親ガチャ問題を本が変えていく「税金で買った本」
クドカンドラマでも何でもないのだが、話の流れで個人的に注目している『税金で買った本』について語らせて下さい。
『税金で買った本』は主人公である石平(明らかにキャラクター造形や背景がチェンソーマンのデンジであり、ジェネリックデンジなのが面白いところだ)が本や図書館を媒介に人と関わっていく図書館お仕事漫画なわけだ。この漫画の凄いところは石平が文化的資本もなく、片親であり、家庭環境も崩壊しているのは背景にあるキャラクターであることだ。昨今話題になっている「親ガチャ」のハズレを引いてしまった少年だ。(石平の同級生である灰坂や山田も石平とは異なった家庭環境が崩壊していたり、文化的資本が足りないのが描写されている)
11巻ではとあることがキッカケで離婚した父親が書いた小説の読書感想文を書くことになる。この読書感想文を書くことを通して父親との思い出と関係、幼少期から今の自分について、そして自分の悩みを整理して感想文という形で出力していく。
石平は完成した感想文を当初の目的であったコンクールに提出するのではなく小説を書いた父親に見せに行く。そこで石平は父親とコミュニケーションを交わし、父親との関係性を修復する。ここで、石平は自分と同じく父親も小説を書くことで離婚したことなど自分の気持ちを整理するために書いたことを知る。この親子は書くという行為を通すことで気持ちを整理し、自分を知り、救うことをしていたのだ。
この巻と石平の親子関係を描きながら、「書く」という行為によって自身でケアすることを描写しているのだ。
また、この『税金で買った本』は本や図書館といったものを扱いあがら、行政が救えない問題や人物を書いている志の高い漫画だ。
そして時には救えないこともあるが、やはり本や図書館という文化、いや教養によって救われる話もあり、涙なしには読めない。あとで触れる「タイガー&ドラゴン」でも虎児が落語という文化を通して、変わっていく。家族とか笑いを知っていくという流れにも重なる。多分、自分はその手の作品に弱いのだろう。
これをヤングマガジンという青年向け漫画雑誌で連載しているんだからすごいよね。めちゃくちゃ社会貢献している漫画だと思う。
実験的ドラマの「木更津キャッツアイ」
木更津キャッツアイは宮藤官九郎三部作の中間にあたる作品であるため、宮藤官九郎が「今までやってきたことの焼き直し」と「今後やっていきたいこと」が入り混じる作品だ。
木更津キャッツアイは千葉県木更津市を舞台に、余命半年の宣告を受けた主人公ぶっさんを中心に高校時代のクラスメートで同じ野球部所属だった5人組が、昼は草野球チーム「木更津キャッツ」でのプレーや地元遊びに興じ、夜は怪盗団「木更津キャッツアイ」として珍騒動を巻き起こすコメディ青春ドラマである。
本作は哀川翔や氣志團などを実名の役で登場させたり、脚本の構成は野球の試合になぞらえて表と裏の二部構成の全9回となっており、表でちりばめられた伏線が、メインストーリーの裏で何が起こっていたか巻き戻して説明し、回収されるというパズル的な作りとなっている。
割とご都合主義的に話が展開され、回収されるのだがコメディテイストであるため、笑っている内にそんなの気にしなくなってくるというクドカンマジックによる技巧で納得させられてしまうのだ。
木更津キャッツアイにおいては池袋ウエストゲートパークでもしていた
「社会のはみ出し者を書く」←ぶっさん達の設定
「継続的支援によってケアする」←美礼先生周りの描写
「固有名詞を頻出させることで漫画的世界観とキャラにリアリティを待たせる」←氣志團、哀川翔
を書いている。
そして、本作からクドカンドラマの特徴でもある「物語」(別の現実)によって主人公たちの現実に影響を及ぼすさまが書かれていく。
表と裏の二部構成で、表でちりばめられた伏線が、メインストーリーの裏で何が起こっていたか巻き戻して説明し、回収されるというのは、表という現実または主人公たちが生きる時間軸に対して、裏という別の物語(違う時間軸)が影響を及ぼす。そして、表でどうしようもなくなった時に助けてくれるのは裏で起きた出来事なのだ。
この要素は「タイガー&ドラゴン」でさらに発展していく。
宮藤官九郎、1つの集大成である「タイガー&ドラゴン」
実質的第0話であるテレビスペシャルでは春風亭昇太が演じる林家亭どん吉の語りから物語の幕が開ける。
どん吉「昔から実力が伯仲する者同士が争う事を『竜虎にらみ合う』などと申します、竜と虎、しかしこれには大きな矛盾がございまして、竜てぇのは想像上の生き物で誰も見たことないんです。
一方、虎は別に珍しくもない、上野行ったら会えるんで、つまり虎と竜は住む世界が違うから勝負になんない、これはそんな違う世界に住む虎と竜の話で……」
成馬零一は『テレビドラマクロニクル 1990→2020』においてこう述べている。
宮藤官九郎が木更津キャッツアイで蒔いた種はマンハッタンで成長し、ついに本作にて開花することになる。
「タイガー&ドラゴン」においても池袋ウエストゲートパークから書いてきた社会から眉を顰められる存在としてのキャラクターが書かれており、それを落語という物語によって現実というもう一つの物語を変えていくのだ。
落語は虎児が選んだ、笑ったことのない自分を変えるための物語である。落語という既にある物語を自分の体験を注入することで自分の物語る。それによって、どんどん現実をプラスに変えていく。仮面ライダー電王においても、「桃太郎」という物語を憑依させて「卑怯なコウモリ」などの童話をモチーフにしたイマジンを倒していく。そうして、契約者の人生を変えていく。これは、桃太郎という自分で選んだ物語で自分で選んでない物語に取り憑かれた人を倒す…みたいな。
また、白倉伸一郎がスーパーヒーロー戦記でやりたかったことは実は「タイガー&ドラゴン」が先行してやっていたのだ!
と、どうしても特ヲタの自分はそういう共通点を感じてしまう。
ここで、もう一つ言うとクドカンドラマの「社会から眉を顰められる存在としての登場人物」は平成ライダーに多く関わってきた脚本家井上敏樹のテーマの1つである「現実は非情であるが、この世で生きてはいけないタイプの人間が救済される」と近いものがある。主人公である虎児は父が、地元のヤクザに借金をしてしまい、精神的に追い込まれていた。そこである日、妻と息子の虎児が寝ている間にガスの元栓をひねり一酸化炭素中毒によって一家心中を図り両親二人は命を落としてしまうのだった。生き残った虎児は施設に預けられ中学卒業後は地元でチンピラをやっていたが、18歳の時に新宿流星会の若頭である日向にスカウトされることでヤクザとなってしまうワケだけど小説版龍騎や月神での井上敏樹なら全然やると思う。
それは井上敏樹と宮藤官九郎という二人の脚本家は青春期に「傷だらけの天使」「探偵物語」や、アメリカンニューシネマに影響を受けた世代だからかもしれない。
あ、そうそう。どうしようもない人間の継続的支援とケアは虎児、田辺ヤスオ、ジャンプ亭ジャンプ、リサ、どん太周辺の描写で行われている。
「池袋ウエストゲートパーク」、「木更津キャッツアイ」でやったことが「タイガー&ドラゴン」で遂に完成したのであろう。
なぜ宮藤官九郎ドラマでは「物語」が「現実」を変えていくのか
これはもう皆言っていることだが、宮藤官九郎が尊敬する市川森一の影響だろう。特に市川森一が書いた「淋しいのはお前だけじゃない」の影響が強い。(ちなみに三谷幸喜も影響を受けており、「弱い人々が集まって大きな一つの力を作っていく」姿に影響を受け『王様のレストラン』が作られたという)
「淋しいのはお前だけじゃない」」は大衆演劇がテーマ作品だ。借金取りの沼田薫(タイガー&ドラゴンで六代目林屋亭どん兵衛役の西田敏行が演じている!)が、多額の借金を返済させるために旅一座の俳優と債務者を集めて劇団を始めるうちに大衆演劇の魅力に引き込まれていくという物語だ。現実はひっ迫し、家族関係が崩壊しながらも生きている人間達が、映画や芝居の持つ虚構の世界に魅入られ、今度は自分達が物語の力で現実の自分を救っていくのだ。
特撮ファンからすると仮面ライダーの脚本を手掛け、ウルトラマンAのメインライターだった市川森一。そこには、怪獣の名前がキリスト教由来の者やお話、展開が見られた。
それはまさに「キリスト教」というある種の物語を劇中というもう1つの物語に注入することで何かしようとしていたのではないか…。
今となってはそう思ってしまう。
平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマの共通点
整理
さて、ここまで平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマにつて論じてきました。
ここまで読んだ人はなんとなく分かると思いますが一度簡潔に整理してみようと思います。
「社会から除け者とされる登場人物を書き、いかに救済されるか」
「救う方法は相手のことを受けとめた上でケアを行う」
「物語上での悪は何かを押し付ける者や、物語に囚われる者として設定する」
「他者によってのケアに難しい場合は、自分が物語を作ることでどうしようもない現実を変えていく」
平成仮面ライダーも宮藤官九郎ドラマにはコレが根底としてあり、共通しているのではないでしょうか。
狭間の存在がヒーローである
平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマにおけるヒーロー
さて上記に挙げた以外にも共通点があります。
それは「何かと何かの間(はざま)の存在がヒーロー(主人公)になる」ということです。
これは主人公に葛藤をさせないと十分に内面描写が出来ない、という作劇上での理由があると思いますがもう少し考えてみようと思います。
石ノ森ヒーローの解析結果としての平成仮面ライダー
さて、平成仮面ライダーが石ノ森章太郎の漫画からエッセンスを抽出して上で作劇に活かされているのはファンなら既にご存じなはずです。
それが具体的にどの様に描かれているかは他の方にお譲りするとして、石ノ森ヒーローの定義としては先に挙げた「何かと何かの間(はざま)の存在がヒーロー(主人公)」です。
それは石ノ森漫画の終盤の展開を見れば明らかです。
「009」の「天使編」や「神々との闘い編」は「人類の中から新しい力(たいてい超能力)を持った集団が生まれる、もしくは神が望んだように人類は成長しなかった」「旧人類と新人類、もしくは神と人類の間で争いが起こる」「ヒーローはこれら2種族の架け橋となる、あるいは弱者の側につく」このような話となるはずだったのでしょう。「神々との闘い編」の直後に連載された「リュウの道」は、まんま「猿の惑星」はじまるまりますが、「続・猿の惑星」のような異種族同士の対立の末の破滅ではなく、主人公であるリュウが新人類側と旧人類側を束ねるリーダーとなる話でした。「イナズマン」では、超能力を使う武闘派テロ集団である「新人類帝国」と、穏健派であり、旧人類との共生を求める超能力者集団である「少年同盟」との闘いの話です。「リュウ三部作」の最終作である「番長惑星」は、パラレルワールドである「もう一つの地球」に遷移した後、超能力を使えるようになった主人公が仲間たちを集め、「影」と呼ばれる神のような悪魔のような存在と戦う話でした。しかもその「影」は(またしても)人間を作った存在だったということが分かるのです。
これは「サイボーグ009完結編conclusion GOD’S WAR ありえざるもの 」「仮面ライダーアギト」「仮面ライダー1971-1973」が解析結果として同様の展開に至っています。
では、なぜ石ノ森漫画では「超能力を使える新人類」「人類を作った宇宙人としての神」「二つの種族の戦い」「戦いを止めようとするヒーロー」が何度も描かれ、その度にヒーローは「何かと何かの間(はざま)の存在がヒーロー(主人公)」なのでしょうか。
社会背景的にはベトナム戦争が考えられると思います。
ベトナム戦争に対する反戦運動はソンミ村虐殺事件が報道された1968年ごろから激化したとされています。この頃、発展途上国にとって「神」のような資本や物量、軍事力を保有する世界のリーダーであるアメリカが正義無き戦争を行ったことは日本だけでなく、世界的に衝撃でした。ベトナム戦争がテレビで普通にお茶の間に放送されていましたから、石ノ森章太郎も衝撃を受けたハズです。それが石ノ森漫画や石ノ森ヒーローに大きく影響したのでしょう。
さらにもう1つ挙げられるのは、石ノ森章太郎にとっての漫画家という職業が、「新人類」的なものだったという価値観です。個人的にはコチラの方が正しい気がします。
石ノ森は当時のトキワ荘漫画家には珍しく、漫画家になることを両親から反対されていた過去を持ちます。これは『まんが道』を読めばわかると思いますが、赤塚不二夫や藤子不二雄双方の母親が上京して息子の漫画家活動をサポートする中、石ノ森の身の回りの世話をするために上京したのは家族の中で唯一漫画家になることを応援してくれた姉である小野寺由恵だけです。特に石ノ森の父は厳格な公務員であり、漫画家になることを猛反対されており、石ノ森の漫画を読んだのはかなり後年とのことです。実の母親は三ヶ月に一回だけ上京し、洗濯のみをして帰郷していたり、石ノ森は姉以外とは家族関係が上手くいっていなかったようです。
石ノ森の自伝を読んでみると姉だけが漫画家になることを応援してくれ、石ノ森も姉のために描いていたようなところがあったそうです。
ちなみに、石ノ森が姉の為に描いており亡くなった事実から抜け出せず、描けなくしまった際に、両親はまだそんなことを、と怒ったそうです。
石ノ森章太郎にとって、姉の死は相当ショックで一年間漫画描けなくなり、集英社の記者という名目で世界中を旅してやっと描けるようになったと言われる程です。
また、石ノ森が残した構想ノートには『時ヲすべる』というタイムスリップ・オムニバス・ストーリーというか、石ノ森版『T・Pぼん』×『未来の想い出』の様な漫画があるのですが、その最終回「トキワ荘の蒼春」のメモ書きがありそこには
・青年と現代の石ノ森の‘‘意識‘‘は40年前のトキワ荘、石森の中へ憑依する
ーー姉の死の直後で、自殺を考えている。
・トキワ荘時代の「姉の死」ーー傍で見とれなかった事。深い喪失感と哀しみの中で、ホッとしていたこと。→苦しみからの解放
以来「死はホッとすること」
・これは、死についての考察のマンガだ。
と書かれており、晩年期になっても石ノ森章太郎にとって「姉の死」はそうとうショックであり、まだ心の傷が癒えておらず複雑な心境だったのでしょう。石ノ森も「ケア」が必要な人物の一人だったのかもしれません。
超能力を持つ新人類が権力を持ち保守的である神(両親)に迫害を受けるという構図は、超能力のような力で漫画を描く力を持つち、漫画という新たなジャンルに挑む若き漫画家たちが両親に代表される保守的な権力から迫害を受ける。そのような石ノ森の漫画家としての立ち位置を反映しているのではないでしょうか。
また、夏目房之介が石ノ森章太郎に対して行ったインタビューでも
と、漫画があまり迎合されておらず影を落としていたことや
石ノ森章太郎は漫画家として大成した後にも章説と称して自伝を書いたり、『仮面ライダー』や『イナズマン』において監督と脚本を務めたりと、やはりどこか漫画という媒体だけではない作家なのです。
それは何も大成後に大物漫画家として漫画に飽きたからではなき、下記リンク先にあるような記事からも彼は漫画以外にも興味があったワケではないことが伺えます。
http://minasebungei.web.fc2.com/80ishi.pdf
(石ノ森の同級生が当時の彼がどのような人物であったかを述べている)
石ノ森は漫画という新ジャンルで勝負する一方で、それしか出来ないから漫画を描いている…。それはまるで、望んで力を与えられたワケではない仮面ライダーがその改造手術による力を行使することでしか生きていけない(愛する者を守れない)のと近しいものを感じるのです。
もしくは石ノ森にとって、神は「両親」であり、旧人類はつまり漫画の描けない「姉」でその間の存在として漫画家である石ノ森がいると。だから、新人類の石ノ森は漫画を描くということで旧人類の姉を守り、神である両親に立ち向かう…。そんな風に捉えていたのかもしれません。
岡田斗司夫「遺言」でも書いてあるのですがどうもクリエイターというものはそんな意識を持って作品を作る傾向にあるようですし。
ちなみに今では考えられませんが戦後まもなくの日本では漫画というだけで風当たりが強い時代があり、手塚治虫や永井豪が悪書として扱われ、校庭で燃やされたり、漫画家と今でいうPTAが本気でバトっていた時代があったのです。
また、『別冊宝島104 おたくの本』という1989年に出た本がありまして、みうらじゅんが書いてたり、京本政樹が出てたり、ある一定の特撮オタク層は見ものな記事もあるヤツなんですが、これを見れば漫画…というかサブカルチャーがいかに最近になって受け入れられたものか分かるかと思います。
(上のやつとか‘‘おたく‘‘という語を生み出した中森明夫がこれ書いてるのス、スゴい…。今なら炎上必死な内容ですよね(笑))
1989年の時点でこれですから、それより約40年前である石ノ森が少年時代を過ごした戦中、戦後まもなく、しかも閉鎖的な田舎の宮城県で厳格な父とあったら本当に風当たりが強かったと思います。そんな中で味方でいてくれる姉は石ノ森にとってどれほどの存在であったかは言うまでもありません。
何かと何かとの狭間の存在でなければ意味がない
こうして考えると石ノ森は姉によって受け止められるというケア、
姉亡き後、漫画の執筆という自身で物語を描くことでケアを行ってきた人物です。ケアというものを体現した人物だからこそ、その後継者としての平成仮面ライダーではケアを書き続けているのかもしれません。
クドカンも脚本家、映画監督、役者、ミュージシャンなどいろいろな肩書を持っており何かと何かと間の存在です。だかれ、マコトはどこにも属さないし(それで批判されてしまうが)、ぶっさんは生と死の間を行ったり来たりする人物として、虎児はヤクザと落語会と間の存在として書いているのかもしれません。
平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマを超えていく「ハズビンホテルへようこそ」
長々と平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマについて書いてきましたが
最近、平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマがやろうとしたことをかなり上手く取り入れた作品が登場しました。
それが『ハズビン・ホテルへようこそ』です。
この作品、池袋ウエストゲートパークとSh15uyaの世界観というかそれよりもかなり治安が悪い作品です。
主人公であるチャーリーが生きる世界は、暴力と悪意と性的倒錯に立ち込めており、まさに地獄にふさわしい世界です。「おはよー」「おはよー」とあいさつをするようにチャーリーも地獄の住人に「こんにちは、おじさん」と呼びかけるのだが、帰ってくる返事は「Go f※ck Yourself!(さっさと失せやがれクソが!)」です。ディズニー的世界に巨大な中指を立てている返事だが、それを大して気にもとめず歌い続けるチャーリーの姿に、むしろこの地獄世界の圧倒的な治安の悪さが現れていいます。
窓を開けっ放しでハードコアセックスに励む者、風が吹く様に肉片と化す住人、路上の死体を食い散らかす異形の者たちや、歌を邪魔して性器(?)を触らせようとする化け物といった魑魅魍魎が跋扈する地獄変な世界なのです。しかし、チャーリーは決して負けることなく、そんなどうしようもない人々も救おうと心に決めて、チャーリーは「今日は地獄で最高の一日になるはずだ!」と高らかに歌い上げるのです。しかし、この地獄はとても「冷笑的」な場所であり、希望や良心を歌うチャーリーは嘲笑、冷笑の対象であり、そんな地獄の住人たちの姿が繰り返し描かれます。地獄は「罪人」と見なされ、見捨てられた魂が集う場所で、誰も自分に価値や可能性があるなどとは思っていない。娯楽といえばセックスか暴力か酒かドラッグか、チャーリーのような「綺麗事を歌う愚か者」が無様に失敗する姿を嘲笑するぐらいです。しかも、人口過剰の解決策という名目で年に一回天国から天使達が使わされ、罪人の悪魔たちを粛清する「エクスターミネーション」が執行され、毎年多くの悪魔たちが殺害されます。
どうでしょう?かなり仮面ライダー555、Sh15uya、池袋ウエストゲートパークの世界っぽくないですか?
この物語はそんな状況を打開しようと主人公チャーリーが地獄の環境改善のために悪魔の更生施設としてホテルを経営する…。という物語です。
社会からのはみだし者と中間の存在達
このハズビンホテルに登場するキャラクターは境遇が陰惨かつ凄絶であるキャラクターが多く、中には様々な性的指向を持つのキャラクターが描かれ、そんな彼らが差別や格差や偏見と言った社会悪に晒されたりするのだ。
しかも、主人公チャーリーは純粋な地獄生まれだったり、その恋人のヴァギーは実は天使であったという過去を持つ、まさに抜け忍的キャラであり、地獄という世界でも彼らはマイノリティなのだ。だが、彼らのようなマイノリティだからこそ見える視点があり、その視点が小さくではあるが確実に変えていく。
そんな彼らが抗う姿をこの物語は美しく残酷に紡いでいく。
傲慢な主人公
ここ書くと主人公(サイド)はすごく正しい存在と描かれているがそんなことはない。
チャーリーはともすれば、白倉がクウガやコスモスでの問題点として指摘した無理やり再教育化(一種の洗脳とも言うべきか)しているように見えるというのを内包したキャラでもあると言える。その実、チャーリーがしていることは、押し付けとも捉えることが出来る。チャーリーは地獄やエクスターミネーションは悪いという考え方を持っており、更生し、天国へ行くことこそが良いという考えだ。しかし、地獄は本当に悪いところなのだろうか?チャーリーは地獄の罪人(住人)達が持っている「天国より俺or私は地獄での生活がいい」という感情を全く考えていない。さすが、地獄の女王で王族のチャーリーというべきか。ホテルに宿泊すること自体は自分達の意思という体裁で自由を認めているが、一話でアダムに話していた内容から察するに、地獄の罪人達が増えるのは天国に行くことで解決できるという長期政策として考えているのだ。しかし、そんな彼女に反省の機会を与えるかのように彼女の独断の行動、お節介によってトラブルが生じた際にはそれは迷惑であるときっちり示される。その度に彼女が反省する描写など、白倉伸一郎達が出来なかった管理側の更生が描かれているのも面白い。
ケアをきっちりと描く
またチャーリー以外にもケアが描かれている。
エンジェル・ダストとサーペンシャスが良い子と悪い子の継続的支援における良い例だろう。
第四話「仮面」ではエンジェルが深堀りされる回なのだがこの回はまさしく、エンジェルというキャラクターの転換となる回だ。エンジェル・ダストは著名なポルノ男優として知られる悪魔であり、プライベートでは売春を行ったり、酒と薬を繰り返す日々を送っていた。
また、自分のことをポルノスターとして誇らしげにしつつも、雇い主かつ契約相手であるヴァレンティノには抗うことができなかったりする。
支配され、虐げ、嬲られ続け、どこにも逃げられず、服従するしかない現実に自暴自棄になっており、自身が更生することもどこか諦めている節がある。
「https://youtu.be/YXloZd62JT4?si=F46SjvBl50Sc_GA1」
彼は自分の物語を生きれておらず、現実逃避を行っている。
平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマの文法ならまさに「バッドエンドがいつも待ってる」キャラだ。
しかし、彼はハスクとお互いの悩み(二人とも契約に縛られており、自身の過去を後悔している)を打ち明けることで、互いの弱さを受け入れることで彼の心境に変化が訪れることになる。
この物語ではことあるごとにミュージカルが始まる。
それは、旧来のミュージカル映画と同じく(大体は)本心を語る時であり、ミュージカル後はそのキャラクターの問題は解決の方向へと向かう。
それはミュージカル、音楽という形で自身の物語を語ることができたからだ。物語ることで現実を変えていく。実にクドカンドラマであり、「不適切にもほどがある!」の構成に近い。
第六話「天国へようこそ」では親友であり、作劇上では「観測者」としての役割が与えられているチェリー・ボム(エンジェルを揺さぶることで葛藤させてり、彼が最初とは変わったことを示すためにキャラだ)からドラッグを初めとする危ない遊びの誘いをされるが、やんわり断ったり、ハスクにもやたらと誘うようなことはしなくなった。また幼いニフティがクラブで危ない目に合わない様に気に掛けることができるようになる。
実質的に第0話にあたるパイロット版ではポルノスターや武闘派悪魔としての自身のイメージの失墜を恐れたため、「いい子でいるのは俺らしくない」言い、TVでチャーリーがホテル宣伝をしている最中に約束を破ってチェリー・ボムと抗争に参加し、宣伝を台無しにした。彼と比べると明らかに成長している。まさに、悪い子から良い子に変化しているのだ。
また、彼はヴァレンティノにも反抗できるようになる。その分仕事中は手ひどくされるようだが、恐怖以外の感情を抱けるようになった。現実は変わらない、しかし、彼は確かに自分の物語を紡ぐことが出来始めている。
現実は変わらない。だが、自分の心持ちは変えることができる。
ヴァレンティノへ反抗できるようになったのは岡田が示した子どもが自律に至る道筋の3点である
①自律的な大人(教育者)のモデル学習
②教育者の他律干渉に反抗、否定することによって自律へと到達させる
③他律的教育による断片的知識の蓄積がある時点で臨界点に達して一定の構造化を伴う全体生を立ち上げ、個々の出来事や知識断片に意味を感受することができ、自律的判断が可能になるという道筋だ。
の、②の段階に進むことが出来たのだろう。
それはエンジェルだけでなく、サー・ペンシャスにもおいても描かれている。
サー・ペンシャスは当初は敵として登場する。しかも、スパイとしてホテルに入り込むことも行ったりする。しかし、エンジェルと同じくサー・ペンシャスにもチャンスの機会は与えられるのがこの「ハズビンホテルへようこそ」の特徴だ。サー・ペンシャスはスパイとして入り込むが、逆に裏切られてしまい孤立してしまう。だが、サー・ペンシャスは主人公たちチャーリーに謝罪を行うことで許され、新しく仲間になる。仲間になったばかりの頃は密かにホテルの仲間たちの「寝顔を覗き見している臆病な道化」として揶揄されるなどまだ仲間には心を開くことが出来ていなったが、第六話「天国へようこそ」にまで話が進む頃には一緒に酒を飲みに行き「友達がいるってことは最高ですね!」と言うまでに仲間たちに心を開いている様子がうかがえる。終盤で書かれる天使軍との戦いでは好意を寄せるチェリー・ボムに思いを伝え、決死の覚悟で攻撃をしかけるが敗れて死んでしまう。彼の物語はこれで終わりかと思いきや実は天国にて天使に転生出来たことが明かされ、シーズン1は幕を閉じる。自己犠牲はキリスト教観においては愛とされる行為でありだから転生できたのだろう。蛇は人間に現在をもたらした邪悪な存在であり、脱皮を繰り返す蛇は死と再生の象徴である。また、彼が引き連れるエッギーズはキリスト教では復活や生命の象徴とされる卵を示唆している。そんな彼が天使に転生するのは中々味わい深い。
そもそもハズビンはHAZBINと書くが、同時にhas beenなのである。(中学生ぐらいに習ったであろう過去完了形だ。)
過去完了形とは過去から現在まで行われていることを表す。
彼れらは過去(現世)から現在(地獄)までに犯した罪を贖罪する物語なのだ。そして、過去の自分を変えるのが物語の核であるのだ。
本作は平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマでやってきたことをやりながら、エンジェルやサー・ペンシャスの描写を通して、悪い子が継続的に周囲に受け止められることで徐々に更生していくというケアの形を真正面から書いている。これは先の二作では出来なかったことをしており、進んでいる点だろう。
だから、私としては平成仮面ライダーと宮藤官九郎ドラマの後継者としてどうしても見てしまう。
おわりに
現実はどうしようもなく、残酷で、非情で、絶望に満ち溢れている。
しかし、物語という形においてそれを乗り越える術を提示してくれる作品は素晴らしいと思う。
そうして、私達はその物語から勇気をもらい、現実という悲劇の物語に立ち向かうことが出来る。
それは作品で示された、物語ることで現実という名の物語を変えていくのと同じだと思う。
また、現実では難しい問題である良い子/悪い子をいかに救うか?を作品で書かれることも、困難な現実を物語の力で何とか抗おうとしていてそれもまた素晴らしいことだと思う。
戦後、絶対的な正義が無くなったこの世界で。
その行いは間違いなく正しい行いだと思う。ちっぽけではあるが。
そして、ヒーロー無き世界においてそれだけがヒーローであることが出来るのだと思う。
あとがき(と、言う名の言い訳)
個人的なことであるが最近、色々と思うところがあったので今回の記事を書かせてもらった。
押井守は「凡人として生きるということ」で
と書いている。別に映画じゃなくても人間が何か形にするにはこれが必要なのだろう。
これを書いた私自身、「良い子」では無かった人間だ。(別に、今も良い子なのかと言われると首を傾げるが)どちらかと言うと「悪い子」に分類される人間だ。
だが、そんな私だからこそ書けるものがある。そう思った。
だから、この記事を書いたのだ。
この記事は読みづらいことこの上ないと思う。
それは本当に申し訳ない。
ただ、自分が面白いと思ったものをなるべく詰め込もうと思った。
この記事で色々な作品や本を多く取り扱ったのは、「うわ、面白そう」「へえ~こんなのがあるんだ」って思って欲しかったから。
積載オーバーであっても、ごちゃごちゃしたおもちゃ箱の方がワクワクするじゃないですか。
平成仮面ライダーも宮藤官九郎ドラマも時に作品のバランスを壊してでも自分の思いや信念を入れ込もうとするじゃないですか。そういうところに魅力を感じた自分としてはこの記事でもしたかったのです。
ただそれだけのことなのです。
(ま、論文でも何でもないしたまにはこんな語り口ですらバラバラな記事があってもいいよね。世界は多様なんだし)