グロンギはカラーギャングな夢を見るか?〜西暦2000年を映す『悪』とはなんだったのか?〜
仮面ライダークウガのグロンギとIWGPのカラーギャングは同じメタファーとして機能してる説
『仮面ライダークウガ』におけるグロンギと宮藤官九郎が脚本を務めたテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(以下IWGP)におけるカラーギャングは、一見すると全く異なる存在に見える。前者は特撮番組に登場する怪人であり、後者は現実社会を舞台にしたドラマの登場人物である。しかし、両者を比較すると、その本質において非常に近しい存在であることが窺える。
まず、両者は「社会の外側に位置する異質な集団」として描かれている。グロンギは人間社会に溶け込む一方で、独自のルール「ゲゲル」に基づき、無差別に人間を殺害する。彼らの行動は一見無秩序に見えるが、実際には彼らなりのルールや階層構造を持つ閉じられた世界の中で行われている。
一方、IWGPのカラーギャングも、池袋という街に根ざしながら、独自の縄張り意識やルールを守る存在である。彼らの行動や存在自体もまた社会的な規範から逸脱しており、一般社会から見ると「理解できない異質な存在」として恐怖を抱かせていた。
次に、両者は「現実の社会問題を抽象化したメタファー」として機能している点で共通している。『仮面ライダークウガ』が放送された2000年代初頭、日本社会は少年犯罪の凶悪化や新興宗教による事件などが取り沙汰され、暴力やカルト的な集団への恐怖と拒否反応が色濃く出ていた時代であった。そのような時期に、両作品は西暦2000年という時代において、どちらも通ずる描かれ方をなされている。グロンギは「殺人をゲームとする異質な集団」として、これらの現実社会の問題を反映している。特にン・ダグバ・ゼバが犯行現場に自らの痕跡を残す行動や、ゴ・ジャラジ・ダの少年だけを狙って殺害する描写、ゴ・ジャーザ・ギの犯行予告をインターネット上で行い、その際にヒントも掲載する方法、ズ・ザザル・ザが毒ガスを散布するなど、当時のニュースで報じられた犯罪行動を連想させる。
同様に、IWGPのカラーギャングもまた、バブル崩壊後の不安定な時代を背景にした「社会から疎外された若者たち」の象徴である。彼らは大人たちから理解されず、しばしば犯罪や暴力の担い手として恐れられる存在であるが、同時にその内部には一種の秩序や絆が存在する。グロンギと同様、彼らの存在もまた「他者への恐怖」や「社会の分断」というテーマを反映している。
さらに、両者の主人公の役割にも共通点がある。それは下記記事でも触れたが、何かと何かの間である存在の主人公がヒーローとして位置付けられていることだ。
五代雄介は人間とも怪物(グロンギと同等の力を持つ存在)とのどちらのポジションにも立てない。また、それは真島誠もどの集団にも属さずに振る舞う存在として書かれた。(そして、時にその姿勢が劇中内で批判されたり、その姿勢こそが重要な働きをする)
言い換えるなら、『クウガ』において、五代雄介はグロンギの恐怖に立ち向かい、人間社会の平和を守る存在である。同時に、彼は戦いを通じて自らの中にある暴力性や正義の限界とも向き合う。一方、IWGPの真島誠はカラーギャングと一定の距離を保ちながら、彼らの問題を解決する調停者としての役割を果たす。両者とも「異質な集団」との対立を通じて物語の軸を形成しているのだ。
結論として、グロンギとカラーギャングは、本質的に「社会における異質な存在」や「現実の社会問題を抽象化したメタファー」として機能している点で同じ存在である。『クウガ』が特撮というフィクションの枠組みの中でこのテーマを描いているのに対し、IWGPはより現実的な舞台で同じテーマを追求しているに過ぎない。両作品は異なるジャンルでありながら、共に1990年代末から2000年代初頭の日本社会が抱えていた不安や問題意識を象徴的に表現していたのではないか?
……というのがこの記事の論である。
なお、仮面ライダークウガにおける、グロンギと社会問題については白倉伸一郎『ヒーローと正義』や小谷敏『仮面ライダーたちの変貌:新人類と新人類ジュニア世代』にて詳しく論じられているので興味ある人は是非