問題解決思考との付き合い方を考える。
私は問題解決のパラダイムに囚われている。
発生した問題は解決するべきものだし、敢えて問題を発見して解決することが社会を良い方向に導くと思い込んでいる。その思い込みがどこから発生しているのかは分からない。
幼い頃からなまじ「勉強」が得意だったからだろうか。中学受験を経由して「社会=偏差値によるヒエラルキー」という意識が植え付けられたかもしれない。コンサル組織にいたことが影響しているのかもしれない。
いずれにしても、「問題を設定する」「設定された問題を解決する」という価値観が、私の中に強く根付いている。これを私生活に適用することで有益な場合も多い。家事の効率化などは分かりやすい。一方で、何事にもこれを適用しようとしてしまうと、エラーが発生する。
問題の発生を忌避する思考。
「あらゆる問題は解決されるべきだ」という思想は、あっという間に以下の宣言に言い換えられる。「『問題』とは、あるべき状態を目指して解決されるべきものである。その対処にはコストがかかるものであり、功労者には対価が払われて然るべきものである。」
誰かが「私たちの社会(チーム、家族、……)はこういった問題を抱えています」と主張するとき、私は「あなたはコストを払ってこの問題を解決しなければなりません」と読み替える。「マンスプレイニング」という可愛らしい言葉は、しかし、ここに本質がある。
さて、実際のところ、私の前に立ち上がるあらゆる問題は、いずれも解決できるとは限らない。解決できない問題が発生したときに、それを頭の片隅に置いて、「いずれ解決すべきもの」として向き合い続けるのは、大きな負担である。だから、――問題はできるだけ発生しない方が良い。
「問題が発生しない」とは、想定の範囲内ですべてのことが収まることだ。イレギュラーな事態は問題を発生させ、解決を必要とする。イレギュラーとはマイノリティのことだ。だから、マイノリティの存在主張に、私は自ずと抵抗を感じてしまうに違いない。
問題を無かったことにするのではなく、存在を認めることが、どうしても難しい。それでも、そうあるべきだ。問題は目の前にある。そして、その問題は、解決するべき責務を私に負わせるものではない。
問題を認め、ただ、付き合うこと。
私たちに出来るのは「はらわたを痛める」ことだけだ。splanknizomaiすること。自分ごとのように感じ入ること。それを良しとし、それ以上を求められても無い袖を振らないこと。
問題を「どうでも良い」と切り捨てるのではなく、問題であると認める。受け止める。その上で、何もしないこと。遠藤周作『イエスの生涯』には、その独特な救世主の解釈、キリスト教観への批判もあるが、私には、令和の今、最も求められる救世主の姿に読める。
解決すべき(と思われる)問題との向き合い方も、根底は同じなのではないか。私は問題の解決を志すとき、自ずと加害者ではなく被害者であろうとするし、当事者ではなく裁定者であろうとする。糾弾することを目的に称賛し、己の価値観を補強するだけの材料を集める。するとどうだろう。問題解決を目指していたはずが、あっという間に、目的がすり替わってしまう。
仕事の範疇でそれをしてしまうことは明らかに良くないので、訓練によって回避しようと思えるかもしれない。けれど、私生活ではどうだろう。問題解決の方法を得意げに援用しながら、安易に誰かを責めることが出来てしまうのではないか。そんなときに、私は私を制御できているだろうか。本当に。本当に?
「意識を変える」「頑張る」というのは問題解決のパラダイムではとにかく無意味だ。けれど、それでも、私たちにできるのは、祈りを捧げることだけ。
私は、祈りに意味を感じられるままでありたい。