2023年末のメモ
『百花』
リバイバル、過去の遺産をもとに新しいものが作られていく。
過去の人々が引き続き意思決定者であり、若者たちはその域ではない。
失敗し続ける。新しい試みから何かが生まれるのかは未知数。
ぱっと見はそれらしいものが作れるが、問題は山積みである。
「ジャニーズ問題」「ディズニー問題」
過去の栄光を作ってきたものが、価値観の正しさの暴走により崩壊していく。
それは政治的な正しさの名のもとに行われるが、それによって失われた価値そのものや、経済そのものの被害を被るのは若者であり、老人たちは死んでいく/死んでいった。
「正しさ」の経済
正しさなるものが、結局のところ相対的であり、需給の均衡によって世界が成立するのだ、という世界観が、まだ広まり切っていない。
また、正しさなるものが絶対であるかのような喧伝によって、市場を捻じ曲げる勢力。
「潔癖であるべき」という価値観。
「かつて正しかったことが今も正しい」という誤認。
「ある側面で正しくないことは完全に誤っている」という誤認。
秘密裏の情報戦。マスメディアではない形の世論形成。
一見正しいテーゼの下に突き進む、闘争の時代を生きる人と、そうではない人。
人は惑わされる。強い価値観を求めている。自由からの逃走。
人の感情。
世間で喧伝される様々な価値観、批判、強い意志の発露にさらされて、怒りの感情に素朴に同調する。
いつか、それが間違いだと気づく。知らされる。明るみになる。
最初から知っていた首謀者はそのまま逃げ切る。
互いに怒り、悲しみ、ぶつかり合い、苦しんだ人たちは、どちらにつこうと最初から負けている。
推し/推される
「推し」=好き、尊敬、理想の仮託。
自分が決断するのではなく、誰かの決断や意志や行動を応援する、後援する。
応援を求めるのは推される側。「推してください」と言われて、推す。
そこにはどこまでも自分の責任はない。
君と僕との距離をどう図るか
同じものに怒る。同じ反応を示す。
それ以上に接近するためには、自ら言葉を発しなければならない。
決定的な違いになるかもしれない。それが怖い。
漸近する方法と、接触する方法が全く異なる。
接触してしまうことの恐怖。共犯関係。
手と手が触れた瞬間に、それまで近づけてきたはずの距離が無限遠であったことを知る。
SNS
仮想的な接近が惑わせる。
人の間で生きていると思わせてくれている。
けれど、本当にそれは生なのだろうか。
大いなる他者と自分のみの関係性。
選び取ることすら恐怖であるときに、あらゆる関係性はうっすらとした仮想の、架空の、重ね合わせになる。
ポートフォリオではない。選択的ですらない。
ただ、緩やかな「慰め」の数だけが増えていく。
本質的には責任を回避した上で語られる決意の物語。
別離して初めて、本当には接近していなかったことを知る物語。
葬送の……
選び取ったのか、結果としてそうなってしまったのか
すべての均質な出会いと別れの中で、大切だと思わなかったものが大切になってしまう。
それは、不意に。
能動的な選択は発生しないけれど、それを自ら受け入れていく。
「受け入れる」という選択。
「受け入れる」ことを選択して、選ばれてしまってから初めて生まれる感情がある。
『あの花が咲く丘で君とまた出会えたら』
すべてを受け入れて、ゴールが見えていて、覆らないことがわかって、初めてその感情を発露できる。
その不条理は、その想いは、共感を集める。
もうどうにもならないからこそ、なんとでも言えるという物語。
この卑怯さを感動のパッケージングでコーティングする物語。
おしまい。
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