リスペクトとは何か
私は、私たちは、人と人との間に関係を結ぶ。それは、友愛であり、恋愛であり、それに収まらぬ慕情であり。あるいは、信用であり、信頼であり、それに収まらぬ敬愛であり。あるいは、同朋意識であり、帰属意識であり、それに収まらぬ縁起であり。
ありとあらゆるその関係に於いて、リスペクトなるものが問われる機会は多い。或いは、リスペクトなるものが唱えられる機会は多い。
私は定義不明な言葉を使うのは嫌だし――特に、ネガティブな文脈で、「●●はリスペクトがない」と人を糾弾する道具として用いるのは嫌だ。
一方で、「リスペクトがない」と誰かや何かを糾弾する人が何を主張しているのか、適切な言語化をしたいと、望む者である。
一つには、「自分は誰某をリスペクトする/している」と主張する胡散臭さがある。「私とあなたは友達ですよね」と寄ってくる人は大概友達ではない。「私はあなたをリスペクトしています」という主張は全く同じに聞こえる。「そうです、私たちは友達です」という言葉を引き出し、何かに利用しようというのと同じように、「リスペクトしてくれて、ありがとうございます」を引き出し、何に利用しようというのか。
一つには、解像度の低さがある。リスペクトの反対にある「軽視」とは、即ち認識の経済であり、単純化であり、ラベリングである。「誰某はこういう人間だ」と、既存のストーリー、既存の解釈に当てはめる。それは自動的な行いである。気を抜くと人は物事を単純化する。それは重力である。リスペクトは恩寵。つまり、そのものをそのものとして取り扱うことである。しかも、「何かを得ようとして分析する」のではなく、「ただ、在るが儘にその一挙手一投足を捉える」ことである。
人間や物事を単純化し、型にはめようとする態度。或いは無意識に、人間や物事を型どおりに、単純にしか捉えられない解像度の低さこそが糾弾されている。
社会には、「目的があって、そのために邁進する人間」や「立場があって、その通りに発言する人間」がいて、これらは素晴らしい人間だと思う。それはそれとして、彼らの言う「リスペクト」はとても空虚に聞こえる。まるで、迫られた二択から一方を選びながら、おやつ代わりに片手間に、もう一方をも得ようとしているように聞こえてしまう。
「ポーズはポーズだと分かった上で、それでも割り引いて、白々しく演技するのが大人の対応ですよ」というのも分かっている。分かっているけれど、出来ない。それはつまり、分かっていないのと同じだ。
「人に対してリスペクトがある」という言葉が、即ち「善い人である」を意味するので、欲しくなってしまう。本当に欲しているもののついでに、善人であろうとしてしまう。
「私は善い人ですよ」と言うよりも言葉が柔らかく、謙虚に見えるので、使ってしまう。その浅ましさを、浅ましさとして尊ぶことが出来ないだろうか。浅ましさとして誇ることができないだろうか。
油断してはならない。「リスペクト」を口にする者に。善い人たちに。
そして、己が盲ていることに、自覚的であるように。
尊厳を蹂躙する自覚を以て、人と、物事と、向き合うように。
Very slowly close your eyes
<了>