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リスペクトとは何か

 睦月は、亡き監督に勝利を誓う選手の役から、あたしたちは、勉強はできなくとも豊かな心を失わない若者の役から、進学校の生徒諸君は、受験と点数競争に明け暮れ、疲れ果てたエリートの役から逃げ出せなくなる。捕まりたくない。演じたくない。あたしは、主役を張りたいのだ。演出も脚本も主演も、全部あたしがやる。あたしに役を与えて、演じろと命じるものを、かたっぱしから蹴っ飛ばしたい。他人の物語の中で生きていくことだけは、したくない。
 だから、油断しない。

あさのあつこ『ガールズ・ブルー』

 つまりさ……オレは窓の中にいてさ……
 知ってると……窓のむこうの奴を知ってると……
 奴は幸福そうに笑ってるのだろうと思いこんで
 笑顔があると思いこんで――泣き顔かも知れないとは思わなくて
 オレはそんな風にザワッとするのがたまらなくいやなんだ

三原順『はみだしっ子』

 人は、賢明な人間にも愚行があることを信じない。何という人間蹂躙!

ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳

 私は、私たちは、人と人との間に関係を結ぶ。それは、友愛であり、恋愛であり、それに収まらぬ慕情であり。あるいは、信用であり、信頼であり、それに収まらぬ敬愛であり。あるいは、同朋意識であり、帰属意識であり、それに収まらぬ縁起であり。
 ありとあらゆるその関係に於いて、リスペクトなるものが問われる機会は多い。或いは、リスペクトなるものが唱えられる機会は多い。
 私は定義不明な言葉を使うのは嫌だし――特に、ネガティブな文脈で、「●●はリスペクトがない」と人を糾弾する道具として用いるのは嫌だ。
 一方で、「リスペクトがない」と誰かや何かを糾弾する人が何を主張しているのか、適切な言語化をしたいと、望む者である。

 一つには、「自分は誰某をリスペクトする/している」と主張する胡散臭さがある。「私とあなたは友達ですよね」と寄ってくる人は大概友達ではない。「私はあなたをリスペクトしています」という主張は全く同じに聞こえる。「そうです、私たちは友達です」という言葉を引き出し、何かに利用しようというのと同じように、「リスペクトしてくれて、ありがとうございます」を引き出し、何に利用しようというのか。

 一つには、解像度の低さがある。リスペクトの反対にある「軽視」とは、即ち認識の経済であり、単純化であり、ラベリングである。「誰某はこういう人間だ」と、既存のストーリー、既存の解釈に当てはめる。それは自動的な行いである。気を抜くと人は物事を単純化する。それは重力である。リスペクトは恩寵。つまり、そのものをそのものとして取り扱うことである。しかも、「何かを得ようとして分析する」のではなく、「ただ、在るが儘にその一挙手一投足を捉える」ことである。
 人間や物事を単純化し、型にはめようとする態度。或いは無意識に、人間や物事を型どおりに、単純にしか捉えられない解像度の低さこそが糾弾されている。

 社会には、「目的があって、そのために邁進する人間」や「立場があって、その通りに発言する人間」がいて、これらは素晴らしい人間だと思う。それはそれとして、彼らの言う「リスペクト」はとても空虚に聞こえる。まるで、迫られた二択から一方を選びながら、おやつ代わりに片手間に、もう一方をも得ようとしているように聞こえてしまう。
「ポーズはポーズだと分かった上で、それでも割り引いて、白々しく演技するのが大人の対応ですよ」というのも分かっている。分かっているけれど、出来ない。それはつまり、分かっていないのと同じだ。

「人に対してリスペクトがある」という言葉が、即ち「善い人である」を意味するので、欲しくなってしまう。本当に欲しているもののついでに、善人であろうとしてしまう。
 「私は善い人ですよ」と言うよりも言葉が柔らかく、謙虚に見えるので、使ってしまう。その浅ましさを、浅ましさとして尊ぶことが出来ないだろうか。浅ましさとして誇ることができないだろうか。

 油断してはならない。「リスペクト」を口にする者に。善い人たちに。
 そして、己が盲ていることに、自覚的であるように。
 尊厳を蹂躙する自覚を以て、人と、物事と、向き合うように。

Very slowly close your eyes

<了>

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