燎の卒業式(JAZZ-ON!の二次創作)
「行ってきます」
「ちょっと、燎くん」
いつものように家を出ようとして、母親に呼び止められる。振り返り、あられもない姿にぎょっとして、後ろ手でしっかりと玄関のドアを閉める。
「母さん、そんな格好で、ご近所さんに見られたら――」
「燎くん、今日は卒業式でしょう? その制服ももう見納めだし、お写真撮っておこうかしら」
「そういうのは、今じゃなくて、後で学校でしっかりやるんですよ。母さんも、時間までに準備して学校に来てください」
「え、そうなの?」
「まったく……」
どっちが親なんだか。ピアノで身を立てて若くして結婚した母は、少し抜けたところがある。幼い頃は「若いお母さん」は少し誇らしかったものの、今となっては危なっかしくて仕方がない。
「ほら、保護者入場は9時15分。9時には受付を済ませた方が良いでしょう」
「分かった。ありがとう燎くん」
「じゃあ、先に行ってるから」
家を出るのが遅くなってしまったのを、小走りで取り返す。まだ寒い3月だ。指や身体を温めるため、と思えば丁度いい。
湊ヶ丘高校はどこの駅からもやや離れたニュータウンにある。ここ十数年で開発された一帯は、落ち着いた雰囲気の街で、通学路もいくつかの公園を横切る。本当は、通学時は公園は迂回すべしと定められているのだが、朝練する運動部よりも早く登校する俺を咎める大人はついぞいなかった。
三学期になってからは、登校する機会も減っていたからか、通い慣れた道もどこか新鮮に映る。
学校から二番目に近い、住宅街の中にある公園。その中を突っ切る小路は、途中から段になっている。その段の踏み板とされた木材の色味は、白、黒、白、黒、白、白、黒、……と、鍵盤のように並んでいる。ペンキで着色されたわけでもないし、木の肌が顔に見える、というのと同じで偶然の産物だろう。それも今日で見納めだ。湊町高との合併が発表されるより前、高校一年の春に発見して、幼稚すぎるからと誰にも言わずにいたこの秘密は、けれど、きっとまた誰かが気付く日が来るのだろう。
まだ誰もいない校門を潜り、静かな昇降口で上履きに履き替えると、教室棟に背を向ける。職員室で鍵を借りると、窓から差し込む光に季節を感じながら、人がいない部室棟の廊下をゆく。
数ヶ月前までは日課にしていたのだが……誰もいない校舎を歩くのは、どこか背徳的なたのしみがあるのだと、数年ぶりに思い出す。
部室を解錠する。照明は……ままでいいか。差し込む光を感じながら演奏するのも悪くない。グランドピアノの前に座り、軽く鍵盤を撫ぜる。……後輩たちが毎日演奏しているのだろう。手入れに抜かりはなさそうだ。少し嬉しい。そのまま、思いのままに鍵盤を叩く。
Yesterdays.
……中学の頃、トモたちと出会ってから一気に世界が広がった気がしていた。けれど、高校ではより多くの大切な仲間と出会うことができた。きっとこれから先も、多くの出会いがあるのだろう。
けれど……その影に隠れてしまった別れもあるのだろう。あと一歩で出会うはずだったけれど出会えなかった誰かもいる。不意に訪れた別れを、訪れなかった出会いを、俺たちは後悔することしかできない。
今でさえ、時計の針を戻してやり直したいことは無数にあるけれど、大人たちは俺たちの年齢に戻りたいと口を揃えて言う。その気持ちは分かるけれど、俺は、過去に戻りたいとは思えない。もし昨日をやり直せるなら、後悔ばかりの俺は、いつまでも同じ一日から抜け出せなくなってしまう。だから……だから、取り返しのつかない今をこの目に焼き付けよう。SwingCATSの部室。俺が在校生として見る最後のその姿を。
朝一の演奏を終えて黄昏れていると、ガラガラと遠慮がちに部室のドアが開いた。どうやら、俺と同じことを考えた奴がいたらしい。
「早いじゃないか、トモ。式まではまだ時間が――」
しかし、そこにいたのはSwingCATSのリーダー、智川翔琉ではなかった。
それは、小学生の頃に通っていた音楽スクールからの旧友――そして、ちょうど一年前にSwingCATSを退部した、神条優貴だった。
◇ ◇ ◇
「参ったな、誰もいないと思ったんだけど」
「あ、ああ……」
気まずそうに前髪をいじるユウ。彼とはSwingCATSのどのメンバーよりも古い付き合いだ。小学生の頃に通っていた音楽スクールの頃からもう長いこと一緒に音楽をやってきた仲間だった。それは高校に上がってからも一緒で、ともに立ち上げたジャズ研究会・SwingCATSで毎日のように一緒に演奏してきた。昨年の冬、ユウが退部するまでは。
それ以来、彼がここを訪れることは無かった。想定外の訪問者に二の句を継げずにいると、ユウはそのまま開けかけた扉に手をかけた。
「悪い、邪魔したな」
「じゃ、邪魔じゃないッ!」
俺は思わず立ち上がっていた。ピアノ椅子が床を鳴らす。ユウが丸い目でこちらを見る。
「あ……その……折角だから、少し話さないか?」
◇ ◇ ◇
窓際の席に腰掛ける。冷たい椅子。天板は日に照らされて温かい。
勢いあまって呼び止めたものの、何を話して良いものか。逡巡していると、ユウが口火を切った。
「一年ぶり、かな」
「ああ。確か2月か3月頃に……だから、ちょうど、それくらいになる」
「そっか」
「…………」
「SwingCATSは、その後どうだった?」
「ベースがいなくなったのは痛手だったけど、安藝月のおかげでなんとかなったよ。星屑旅団との二足のわらじは大変そうだったが……ああ見えて勉強熱心で、全く遜色のない演奏をしてくれて、新入生たちの指導も……いや、勿論、ユウにはまったく敵わないんだが、また系統が違うというか――」
「フッ。そんなに慌てなくても良いよ。俺はもう……」
俺はもう。そこまで言って、ユウは口を噤み、一呼吸置いてから続けた。
「……でも、良かった。俺のせいでSwingCATSが台無しになってなくて」
「…………」
「あの時は、ごめん」
「……ユウが謝ることはなにもないよ」
一年前の冬。新入生を迎え入れるための特訓と称してセッションを繰り替えしている頃だった。あれほど遅刻や欠席にうるさかったユウの、セッションへの参加率が徐々に下がっていき、ある日を境にスッパリと来なくなってしまった。それ以来、メッセージのやり取りもままならなくなり、体調でも悪いのかと心配していたが、音沙汰はなく。顧問のもとに退部届が提出されたと知ったのは、しばらくしてからだった。
後に聞けば、進学を望む親との折衝が上手く行かなかったのだという。
「俺たちは……学生だ。学校に通わせてもらっている身で、好き勝手やろうなんて、虫が良すぎる。現に、国立の医学部に合格だなんて、すごいじゃないか」
「……ありがとう」
ユウはどこか寂しそうに笑った。
「リョウも、家は大変そうだったね」
「大変さは……真逆だったように思う。学校の部活レベルで遊んでいるんじゃない、というのを証明し続けなければならなかった。だから、SwingCATSからは決して手を抜けなかった」
お遊びでやっているのならばすぐにやめろ、というのは常に言われていた。「一生懸命に頑張っている」とかではなく、将来につながるのか、と。
「とはいえ、結局の所、親は許してくれたが、実績で説得しきれた自信はない。俺は甘えていただけだ。甘えなかったユウは、偉いよ」
「そんなこと、ないよ」
「…………」
「俺は、約束を破ったんだ。お前らと……みんなと、一生ジャズやろうって言った。それを無碍にしたんだ。受験だって、約束を破ったからには失敗するわけには行かなかった。ただの、裏切り者の矜持だよ」
「裏切り者だなんて、誰もそんなこと思ってない」
「……カケルもか?」
「…………」
ユウの退部を聞いた時、光牙は想像以上に冷静だった。
「選択肢がある奴は、しっかり選ばなくちゃならない。オレみてぇに選択肢がない奴は目の前のことをやるしかねぇけど……そうじゃない奴らは、何かを選ぶ義務がある。自分の責任でな。自分で責任持って、何を選ぶにしても、何かを切り捨てなきゃいけねぇんだ。そいつの選択を、オレは、否定なんか出来ねぇよ」
トモとは……一切、ユウの話はしなかった。
4月になれば新入生が入って来る。ユウ抜きでも、バンドを立て直すしかなかった。サポートに来てくれていた安藝月とともに、後輩抜きでも練習して、なんとか呼吸を整えて。気づけばそのまま、今に至るまで走り続けて来たようなものだ。
「トモが、ユウのことをどう考えているのか。俺にもよくわからない」
それから、二言三言交わして、ユウは部室を去っていった。
今この瞬間に、トモが部室にやってきて、ユウと顔を合わせれば何かが変わるんじゃないかと、二人が会話をすれば、何かが始まるんじゃないかと、そんな俺の願いが叶うことは無かった。
◇ ◇ ◇
Westminster Quarters.
チャイムの音が鳴る。トモは来なかった。当然だ。約束をしていたわけではない。俺は、部室を後にした。
日々は移ろい、変わっていく。俺がトモの女房役ぶって、あいつのことを相棒のように、知った風に語ったりするのは、きっとこの嵐のように去っていった三年間の幻に過ぎない。
俺には俺の明日がある。同じように、トモにも、ユウにも。湊ヶ丘の名から解き放たれた俺たちは、それこそ自由に、バラバラになっていくのだろう。
けれど、だからこそ、この場で重なり合えた奇跡のような時間が、この先も走り続ける俺たちを支えてくれるはずだ。
俺たちはこの先も、いつだって、支え合って、競い合っているんだ。
言葉はなくても。
〈了〉
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?