【村上春樹風】にくじゃがのレシピ
ある冬の日、彼女は台所で肉じゃがを作ることを思い立った。いつも少しだけ薄暗く、あたたかい蛍光灯に照らされたその小さなキッチンは、まるで一つの舞台装置のように、彼女の手元を控えめに照らしていた。冬の午後四時は、まだ夕暮れには早いが、どこか影が伸びていくような時刻だ。
冷蔵庫の奥から牛肉の薄切りを取り出し、彼女はまな板の上でそれをひとつひとつ丁寧に広げていった。「これがなければ、きっと肉じゃがにはならない」そんな気持ちが、彼女の手の動きにしっかりと伝わっている。牛肉は、まるで彼女の言葉を理解しているかのように静かにそこに横たわっていた。
まず、玉ねぎを刻むことにした。彼女は包丁を手に持つと、じっくりと力をかけすぎないように、薄く切っていく。シャキシャキとした音が、台所にささやかなリズムを刻む。玉ねぎを切るとき、彼女はいつも何かの記憶が蘇る気がしていた。自分でもなぜかわからないが、その香りが遠い昔に見た風景をぼんやりと呼び起こすのだ。それはいつも、どこかの暗い街角や、誰かの背中のようなものだった。
じゃがいもと人参も同じように切り揃え、鍋に油を熱する。湯気が立ちのぼる鍋を眺めながら、彼女は少しだけ考え込む。油の熱に触れると、肉は一瞬で色を変え、香ばしい香りを放ち始めた。まるで、この瞬間を待ち望んでいたように。すぐに玉ねぎを加え、焦がさないようにかき混ぜる。その匂いは、彼女にとって不思議な安らぎをもたらした。まるで昔、一人暮らしを始めたばかりの部屋に初めて料理の匂いが充満したあの夜のように。
醤油、砂糖、みりん、そして少量の酒を加える。彼女は、それぞれの量を計るわけでもなく、ただ手の感覚で調味料を鍋に入れていった。料理の匂いが、台所全体を満たす。煮立ち始めると、弱火にして、静かに煮込む。湯気がゆっくりと鍋から上がり、彼女の顔に触れるたびに、台所の時間が少しずつゆるやかに流れていくようだった。
蓋をして待つ時間、彼女は窓の外を眺めていた。冬の冷たい空気に包まれた街が、少しだけ薄い霧の中にぼやけている。何も特別な景色ではないが、こうして時間が止まるような感覚に浸ると、どこか異世界にいるような気がした。心が穏やかで、音もなく、ただ彼女と鍋だけがその世界に存在している。
しばらくすると、肉じゃがが完成した。鍋の蓋を開けると、しみじみとした香りが彼女を包んだ。箸でそっと混ぜながら、じゃがいもが柔らかく、肉がしっとりと煮えているのを確かめる。特別なものはない、ただの肉じゃがなのに、そこには確かな暖かさと安心感が詰まっていた。
彼女は、鍋から肉じゃがをすくって、小さな皿に盛り付けた。温かい湯気がゆっくりと上がり、彼女はそれをじっと見つめていた。どこか孤独な夜の中に、この料理がぽつんと存在している。それは、彼女にとって日常の一部であり、同時に心の奥底にある微かな記憶のような存在だった。
彼女は箸を取り、そっと肉じゃがを口に運んだ。
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