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ぼくはさくぶんがかけない

子供の頃から作文が苦手だった。
というよりも、自分の感情を表明することに対する恐怖みたいなものがあったのかもしれない。
もはや過去の作文は残っていないので、読み返すことは叶わないが、結びの言葉がほとんど同じだったことは覚えている。
「楽しかったです」
「よかったです」
たしか昔、母にもあんたの作文はだいたいこの二言のどっちかで終わる、というようなことを言われた記憶があるので、実際そうだったのだろうと思う。
そもそも、小学校という教室の中で「楽しかった」「よかった」以外の感想を持つことが許されたのかどうか。
あの当時の私は真剣に疑っていたのである。
たとえば「つまらなかった」などという感想を書いてみたとしよう。
するとたちまち私は担任の教諭に呼びだされ「なぜつまらなかったのか」「どうしたら楽しくなるのか」などと小一時間は説諭されるのではないか。そのように怯えていたのである。
実際、そんな説諭も居残りも命じられた同級生は聞いたことはなかった。
それでもその想像、あるいは妄想は妙な現実味を帯びて私の脳裏を占めていたのであった。
もしかするとそれはよくカレンダーや卒業制作に描かれる行事の絵画などから、生まれたものかもしれない。
よくよく想像してみて欲しい。
たとえば四月の入学式の絵である。
華やかな桜の木の下でピカピカの一年生は、どんな顔をしているだろうか。
黄色い帽子の下にあるその新入生の顔は間違いなく笑っているであろう。先生も親もみんな笑っているであろう。
これからよく知らない連中と四角四面の教室にごった煮にされて一日どころか週に五日も過ごすことへの憂いを帯びた顔などどこにもないのである。
それに現実味がないなら十月の運動会の絵画を想像して欲しい。
白熱する徒競走、騎馬戦、玉入れ、応援の人々。みんな笑っているか、競技に熱中しているかであろう。これから始まる組体操のピラミッドで下敷きにされることにうんざりしている子供など、やはりいないのである。
それでもダメなら、絵画から離れよう。
学校生活の終わりにある、卒業式の呼びかけなる奇妙な儀式から考えればいい。
あの呼びかけの始まりはだいたいこうだ。
「楽しかった、運動会!」
かくして私が宿題として立ち向かわなければならない白紙の原稿用紙には、うっすらとした正解があった。
私がどんなに運動音痴で運動会が嫌いでも、団体行動が苦痛でも、それはどこか楽しいものでなくてはならないのであった。
自分の気持ちよりもあるべき気持ちを書かなくてはならない作業なので、これがなかなか苦しい。
私は運動音痴で根性はひねくれていたが、根は正直なタイプなのである。
本当は「運動会なんてやめちまえ!」と書きたいのだがそうも言えない。私は本心との乖離に苦しみながらも無理やり「楽しかった運動会」のエピソードを捏造しながら作文を書いたのだった。
もう学校は関係なくなり、先生におもねる必要もないのだけれど、自分の気持ちを正直に書くと何か言われるかもしれないという恐怖は今もときどき感じることがある。
世の中には正しい感想や認識を持たないといけないと感じる場面がそれなりにあるのだ。
それは職場かもしれないし、家族や友人の間でのことかもしれないし、SNSみたいな不特定多数に向けてのコミニケーションでのことかもしれない。
どこへ行っても自分に正直にというのは、私には難しい。
思えば実は今も私は「楽しかった、運動会!」のような社会に馴染めない不器用な子供のままなのかもしれない。
ぼくはさくぶんがかけない。
正直に書けなかったあの頃。
大人になった私は私に正直に文章を書けるようになっただろうか。
あまり自信はないし、仮に書けたとしてそれが面白いものになるとは思えないのだけれど。
もし書けたとしたなら、それはたとえば初めて自転車に乗れた子供のように、なかなか楽しいものなのかもしれない、とは思っている。

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