
漫才や文学の評論を聞くのは面白いと思いました。今日の言葉#63
前にランジャタイの漫才について
noteを書いた。
そもそも、私が漫才に興味を持ったのは、
ナイツ塙宣之の『言い訳』を読んでからだと思う。
この本を読んで、
M1、漫才、お笑いの奥深さを感じた。
間違った過去、消し去りたい過去が、
ボケになったら、笑いになる。
否定が肯定に変わる。
悩みが笑いに変わる。
お笑いって、不思議な化学反応だな、
と感じた。
最近は立川志らくのM1の解説YouTube
を見るのも楽しい。
最近は、こんな話をしていた。
落語の場合なんかは、
ウケるっていうのは、笑いっていうのは、手段で、
目的は、その先にある、
人間の情けなさや非常識さとか
そこを観客に伝えることで、
そのために、
手段として笑いを使ってるんです
そんなことは考えたこともなかった。
笑いは目的じゃなくて手段??
もっともっと落語について知りたいと
思った。
私の知らない面白い世界が
そこにありそう、と
ワクワクする。
そして、ジャンルは別の話だが、
今オーディオブックで、
夏目漱石名作集を聞いていて、
それと並行して、
別のオーディオブックの
「新潮読書クラブ 第六回 夏目漱石『吾輩は猫である』」
を聞いた。
作家の町田康さんと翻訳家の都甲幸治さんが
『吾輩は猫である』
についての考察をあれこれと話して
対談している。
これも面白い!
久しぶりに、
夏目漱石を読んで(聞いて)、
なんか面白い!と思っていたのが、
他の誰かの評論や意見を聞くと、
さらにその世界の深いところへ
連れて行ってくれて、
またその作品を違う視点で
楽しめる。
こんな文章を最近目にした。
あのね、料理でも、文学でも、なんでも、それぞれの分野がとても気に入ってそこで遊んでいるうちに、その領域で長く遊んだ経験がある人だけがわかるような楽しさってものが、だんだんできてくるんだ。
・・・(略)・・・
そうやって楽しさの質がだんだん微妙で繊細なものになっていくんだ。そういうのを趣味の洗練って言うんだけど、より楽しく、より深く楽しむためには、そういう洗練された趣味を身につける必要があるんだよ。
・・・(略)・・・
音楽を味わうことの専門家は、そういう好みのちがいはあっても、そういう好みのちがいが、なにを意味するのかってことに関する考えを持っていて、それを言葉でいうことができるんだよ。そこがたいせつなところなんだ。同じ交響曲の、指揮者がだれかなんてことは、ある意味では、すごく小さなことだよ。でもね、そのちがいの中に、じつは、人間にとってほんとうにたいせつなことは何かっていうことについての、根本的な考えのちがいがふくまれているんだよ。指揮者たち自身は、そんなちがいに気づいていないかもしれないけどね。だからこそ、そのちがいを言葉で言える専門家ってものが、どうしても必要になってくるんだよ。人間がもっともっと深く、もっともっと楽しく遊べるようになっていくためには、そういう人たちの努力も必要なんだよ。
(太字は原文のまま)
ある分野において、
楽しさの質がだんだん微妙で繊細な
ものになっていく。
その感覚は、どこか
知的好奇心を掻き立てられるような
ワクワクに似ている。
それはどちらも、
今まで見てきたもの知っている世界が
何かを知ることで、
誰かの言葉を聞くことで、
違って見えてくる
面白さだよな、と思う。
こういうワクワクの気持ちが持てた時、
本当に、生きてるのって楽しいよな、と思う。
今日の言葉#63
世界が違って見えるいう体験は、何よりの楽しさなのかもしれない