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FILAのジン、あまりにもかわいすぎる〜それは罪なのか

知らん。自分でタイトルつけといて思ったが、罪かどうかは知らん。くだらねえと呟いて冷めたツラして歩きそうになった。一人で何してるんだよ。ただ、noteっぽいタイトルにしてみたくてしてみたのだが、冷静に考えてこれを正気で言ってるとしたらnoteに対して大きな誤解があると言わざるを得ない。

それはさておき、FILAのジンがかわいすぎてびっくりした。こんなことあるんだ。おっ、FILAジンの写真公開してるな!→開く→びっくりする   みたいな事あるんだ。言うて私毎日ジン見てるじゃん。言わば毎日ジンに対して「慣らし」を行ってるわけじゃん。準備運動をしてるわけじゃん。なのにビックリすることあるんだな。

これなわけだが。今貼ってもびっくりしてる。なんだこれかわいすぎる。顔が小さすぎる。以前ムーが提唱していた「キムソクジン本当は存在しない説」を彷彿させる。ない説をムーに押し付けるな。

こんなにかわいいと大変なのではないかと思う。いや、私は「かわいすぎたこと」が一度もなく、想像でしかないのだが、恐らくかわいすぎると大変なのだと思う。本当に経験がないので具体的には何も言えないが、多分大変であるし、それが言わば罪に対する罰なのではないだろうか。本当に何もわからんが。

さすがに「何もわからん」にも程があるので空想力を働かせますが、まあ例えばこのバケハ、ジンがかぶってるとめちゃくちゃかわいいですよね?じゃあ私も買いましょうとなりますよね。でも、いざ届いてかぶってみたら、「ちょっと待って!写真と違うやん!顔が写真と違うやん!」となるはずです。これがもしかしたら罰なのでは?なぜジンの罪を我々が贖わなければならないのか。

眼福という言葉がある。また、かつてナンシー関は美人に対する形容を「社会的眼福」とした。広くコンセンサスを得た美形というのは社会的なものであり、我々の眼福となってくれている。ジンの可愛さは罪であるが、代わりに福をもたらすことでイーブンとなり、代償として我々が罪を償っているのである。これは聖書に載っている話です。

図にすると、

ジンの罪←→福をもたらす
我々←罰

こうなるわけだが、こうしてみると我々は何もしてないのに勝手に償っているな。

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